本来批判は個人的感情が含まれない批評というかアドバイスであるはず
本来”批判”は個人的な思い込みを可能な限り排したうえで、誰が見ても客観的で適切な根拠と論理的な指摘で改善を求めること、そして批判をする対象の考えなどを理解して指摘することに対しての向上を目的とすること」であって、逆に相手のことを十分理解しようとせずに主観的で明確な根拠のない指摘を行うことは「非難」であるはずです。
それが更に行きすぎると誹謗中傷となるわけですが本来批判というのは否定ではなく、当然誹謗中傷でないわけです。
たとえばなろうの感想で「批判」を行うには、作者と指摘する読者のどちらでもない第三者がそれを見てもちゃんと納得するような客観的で適切な根拠が必要だと思いますし、批判する側は批判をされる相手に批判の内容を受け入れてもらうため、指摘する内容を理解されるためのある程度の信頼関係が本来は必要なはずなのですね。
ただ悪い所を指摘するだけなのは、一見意見に見える単なる感情を相手に押し付けなので批判では本来ないはずなので。
例えば、つまらないという個人的感情を感想に書くなら、なぜ自分は「つまらない」と感じたのかを客観的かつ、適切な根拠をきちんと提示して、その上でどうすれば「自分がつまらないと感じたところが現状より改善できるか」ということを相手に理解してもらえるように気を配りながら説明するのが本来の批判なのです。
要するに本来の批判というのは相手のやりたいことなどをよく理解した上での、ある程度客観的な視線でのアドバイスであって、個人的かつ感情的に気に入らないから否定する行為ではないのですね。
無論いわゆる本格SFの衰退はそもそもどういう作品がSFでそういう作品がSFじゃないとかの、SFマニアのジャンル細分化限定化と物理法則などへの設定へのツッコミによるものだと思いますけど、科学というのもがカソリックの奇蹟による権威という不思議に対する、アンチテーゼであってそういう点ではアメリカでは科学信仰も強いけど、どっちかっつうと日本ではそのあたりがかなりアバウトで神様にお願いすることはするけど絶対性とかもなくってファンタジーの方が、物理法則とかデタラメでも書きやすいからそっちに流れたというのもあるのでしょうけど。




