――第13話 悪趣味な大天使――
「……大天使の力を、見せてあげましょう」
そう言って、ガブリエルは、ほんのわずかに背筋を伸ばした。
その仕草は静かで、儀式めいている。次に起こることが、破壊ではなく“当然の結果”であると示すかのようだった。
彼の背後に浮かぶ――異形の赤子が、淡く光を帯びる。
人の形をしている。だが、人ではない。
胎児のように丸まったその身体は、白く、あまりにも整いすぎた翼を背負っていた。神聖さと不気味さが同時に存在し、見る者の感覚を狂わせる。皮膚の下では、心臓の鼓動とは異なる何かが、規則正しく脈打っている。それは生命の律動ではなく、裁定のために刻まれた“機構”の音だった。
次の瞬間。
――かっ。
閉じられていた不気味な瞳が、音もなく開いた。
その眼差しが向けられた刹那、地下駐車場は一気に光に包まれる。
白い。
だが、それは清浄と呼べるものではなかった。
救済を思わせる色でありながら、見ているだけで、存在そのものを測られているような圧がある。視線を受けた瞬間、自分という個体が、意味と価値を量られる対象へと変えられたかのようだった。
影が消え、
奥行きが潰れ、
距離という概念が、音もなく崩れていく。
空間そのものが引き伸ばされ、同時に圧縮されている。
まるで地下駐車場が、人の認識を超えた、ひとつ上の視座へと無理やり引き上げられたかのようだった。
耳鳴りが走る。
息が詰まり、肺がうまく膨らまない。
心臓の鼓動が、いつの間にか自分のものではなくなり、別の律動に支配されていく。
やがて。
膨張しきった光は、ゆっくりと収束を始めた。
白は畳まれ、現実の輪郭が慎重に戻されていく。
コンクリートの壁。
天井の配管。
地面に落ちる車の影。
まるで、最初から何事もなかったかのように。
だが、その不自然な静けさの中で。
ガブリエルは、ぼそりと呟いた。
「……テオス・エイミ」
それは、呪文ではなかった。
宣言でも、祈りでもない。
ただの――事実の提示。
そう呼ぶしかない言葉だった。
その一語が落ちた瞬間、空気が、ほんのわずかに沈んだ。圧が生まれたわけではない。音が消えたわけでもない。だが、確かに“前”と“後”が分かたれた感覚があった。
何かが始まったのだと、理屈ではなく、本能が理解していた。
理解させられてしまった、と言った方が正しい。
奇跡ではない。
救いでもない。
それは選択でも、願望でもなかった。
これは――
神を名乗る力が、世界に触れた、その痕跡だった。
――?
祈は、思わず首を傾げた。
何も起こらない。
衝撃も、音も、空間の歪みもない。
地下駐車場は、あまりにも静かだった。
まるでこの空間には、悠斗たち以外は最初から存在していないと、そう宣言しているかのように。
それは、間違いなく「平穏」だった。
……にもかかわらず。
柱の陰が、揺れた。
車の影が、伸びた。
暗がりの奥、
光が届かないはずの場所から――何かが、滲み出てくる。
一つ、二つではない。
影は、数を増やしていく。
ぞろぞろと。
音も立てず、秩序もなく。
何十人もの人影が、闇の中から現れた。
足並みは揃っていない。
動きは、どこかぎこちない。
だが、確かに「人の形」をしている。
「……」
見間違いではない。
幻覚でもない。
静寂は、まだ壊れていない。
それなのに、存在だけが増えている。
祈は、無意識に一歩、後ずさる。
――理解できない。
理解できないという事実そのものが、
胸の奥を、冷たく締めつけていた。
「……そんな……」
思わず、祈の口から声が漏れた。
だが、それは――
何十もの影が現れたこと、その数に驚いたからではない。
祈は、つい先ほどまでに、
この地下駐車場全体をアナライズしている。
生命反応。
術理反応。
確認できるものは、すべて洗い出したはずだった。
それにもかかわらず。
今、目の前に現れている人影は、
一切、検知に引っかかっていなかった。
――存在していなかったものが、
当然のように、そこに立っている。
その事実が、
祈の理解を超えていた。
「……これは、いったい……どういうこと、でしょうか」
祈の声は、わずかに震えていた。
悠斗は、答えずに人影を観察する。
一人、また一人と、視線を走らせる。
生気はない。
呼吸も、意志も感じられない。
ふらふらと身体を揺らし、
立っているというより、支えられているような動き。
――生きている、という感じがしない。
さらに。
その装束は、統一されていなかった。
天啓和合会の者だけではない。
ネザーヴェイルの人間も、確かに混じっている。
敵味方の区別なく、
同じ“状態”で並んでいる。
「……まさか」
悠斗は、低く呟いた。
「……反魂……いや、違う」
悠斗は、現れた人影から目を離さずに言った。
「これは――死者を操っている。
ネクロマンサー、か」
その言葉に、はっきりとした嫌悪が滲む。
「……なにが大天使の力だ。
死者をもてあそぶなんて、趣味が悪すぎる」
吐き捨てるように続ける。
「どこが、聖なる力なんだ」
それに対し、ガブリエルは少しも気分を害した様子を見せず、
むしろ穏やかに、諭すように口を開いた。
「これは、信仰の力です」
淡々と、しかし誇らしげに。
「我が信徒たちは、死後ですらトマ様に忠誠を誓っております。
そして――ネザーヴェイルといえども……
死後、トマ様に救われ、忠誠を誓い、我が同胞となった者たちです」
ふらつく死者たちに、慈しむような視線を向ける。
「どのような人間であろうと、救いの手を差し伸べる。
トマ様の懐の深さには……感激するばかりですね」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
祈の表情が、はっきりと歪んだ。
「……ガブリエル」
低く、怒りを押し殺した声。
「あなたの力……反吐が出ますね」
言葉遣いが荒くなる。
それは、祈が本気で怒っている証拠だった。
魂を縛り、
死後ですら意志を奪い、
信仰という名で利用する。
こんな行いが、許されていいはずがない。
魂を操るというアーサーのリネアは、
根本から悪質だ。
それは救いではない。
赦しでもない。
ただ、
支配を“美しい言葉”で覆い隠しているだけだ。
地下駐車場に立ち並ぶ死者たちは、
その歪んだ信仰の成れの果てだった。
「あなたがたも、いまから迷える子羊たちと共に信徒になるのです」
ガブリエルの声は、穏やかで、確信に満ちていた。
説教のように、祝福の言葉のように。
「祈りを捧げなさい。
――われは神なり、われは主なり。テオス・エイミ……」
最後の言葉が、地下駐車場に低く落ちる。
次の瞬間だった。
ふらふらと揺れていた人影たちが、同時に立ち止まる。
まるで、糸を引かれた操り人形が、合図を待っていたかのように。
――光。
一斉に、空中へ術式陣が展開される。
円環。
幾何学模様。
無機質で冷たい、無数の術式陣。
「……っ!」
祈の声が、わずかに裏返った。
「悠斗様、これは……」
その先を、言葉にする必要はなかった。
ざっと周囲を見渡しただけで、状況は嫌というほど理解できる。少なく見積もっても三十。かつて術理士だった者たちが、全方向から銃口のように術式を構え、こちらへ向けている。視線は定まっておらず、意思も感じられない。ただ“発動するための器”として並べられた存在だ。
逃げ場はない。
遮蔽物も、死角もない。
地下駐車場という閉鎖空間が、そのまま処刑場へと姿を変えていた。天井の低さ、柱の配置、出口の位置――すべてが逃走を否定する条件として、今この瞬間に牙を剥いている。ここは戦場ですらない。一方的に終わらせるために用意された場所だ。
祈は、無意識のうちに一歩、悠斗の前に出ようとした。
庇うつもりだったのか、盾になろうとしたのか、自分でも分からない。ただ身体が、そう動こうとした。
だが、その足は、途中で止まった。
――無理だ。
これだけの数。
しかも、一斉発動。
視線を交わす必要も、合図もない。ただ同時に、同じ瞬間に、術理が放たれる。その規模と密度は、個々の力量を問題にしない。数そのものが、すでに暴力だった。
プロテクトでは、持たない。
どれほど層を重ねても、押し潰される。
回避も、不可能。
この空間では、避けるという概念そのものが成立しない。
生き延びる方法は、ただ一つだけだった。




