――第15話 必ず”救う”――
―――祈!
―――――――祈!
悠斗は何度も名を呼んだ。
声に出しているのか、頭の中で叫んでいるだけなのか、自分でも分からない。ただ、腕の中にあるその身体が、あまりにも軽く、頼りなかった。
祈は、悠斗の腕に抱かれていた。
しかし、その体にはほとんど力が入っていない。抱き留めているはずなのに、まるで砂袋を支えているような感覚で、わずかに力を緩めれば、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
指先に伝わってくる体温が、時間とともに確実に失われていくのが分かる。
冷えていく、というより、奪われていく感覚だった。
それも、そのはずだった。
祈の背中は、もはや背中と呼べる状態ではない。
そこにあるはずの肉が、“無くなっていた”。抉り取られたように、皮膚も筋肉もまとめて削ぎ落とされ、白く乾いた骨がむき出しになっている。
血はすでに流れ尽くしたかのように勢いを失い、破れた衣服の残骸と混じり合って、不自然な色を作っていた。
内側に収まっているはずの臓器が、重力に逆らえず、今にもこぼれ落ちそうになっている。
祈は、それを必死に食い止めるように、かすかに身体を強張らせているようにも見えた。
――生きようとしている。
その事実が、悠斗の胸を強く締めつける。
こんな状態で、それでも生きようとしている。
祈の呼吸は浅く、途切れがちだった。
胸が上下するたび、どこかで何かが引き裂かれているような錯覚を覚える。
悠斗は、自分の腕が震えていることに気づいた。
恐怖なのか、怒りなのか、絶望なのか、それとも全部なのかは分からない。ただ、ここに至るまで何もできなかった自分自身への嫌悪だけが、やけに鮮明だった。
祈の名前を呼ぶたび、喉が焼けつくように痛む。
返事はない。
それでも、耳元に顔を寄せれば、かすかな吐息が頬に触れる。
それだけが、彼女がまだここにいる証だった。
失いたくない。
そんな言葉では足りないほどの感情が、悠斗の内側で渦を巻く。
悠斗は、祈を抱く腕に、さらに力を込めた。
壊れないように、失われないように。
たとえ世界がそれを許さなくても。
この腕だけは、決して放さないと。
心の奥で、強く、願うように。
「ま……が……み……さ……ま」
自分でも分かる。
今にも命がこぼれ落ちそうな声だ。掠れて、震えて、言葉として形を保っているのが不思議なくらいだった。それでも、私は必死にそれを絞り出した。呼吸をするだけで胸が焼けるように痛むのに、それでも名前だけは呼びたかった。
だって、私のことを見る真神様のお顔が、見ていられなかったのですから。
泣きそうで、今にも壊れてしまいそうで、悲痛に歪んだその表情は、真神様には似合わない。そんな顔をさせるために、私はここにいるわけじゃない。そう思うのに、言葉は続かない。口を開こうとすると、肺がそこに存在していないみたいに、空気が入ってこない。
息が、しづらい。
まるで胸の内側が空洞になって、そこに冷たい風が吹き込んでいるみたいだった。吸っても、吐いても、足りない。身体が呼吸という行為そのものを忘れかけている。
背中が、熱い。
燃えている。
そう表現するしかないほどの熱が、背中一面に広がっていた。じりじりと、確実に、私という存在を内側から溶かしていく感覚。痛みは、もうよく分からない。ただ、熱だけがある。焼かれているのに、どこか他人事のようで、遠くで起きている出来事みたいだった。
それでも、意識だけは、はっきりしている。
真神様の腕の中。
その感覚だけが、やけに現実味を持って伝わってくる。抱きしめられている。守ろうとしてくれている。その事実が、胸の奥をきゅっと締めつけた。
だから、笑ってあげたかった。
「大丈夫ですよ」って。
「そんな顔しないでください」って。
真神様の笑顔が、私は好きなのですから。安心したように、少し照れたように笑う、そのお顔が。
でも、無理でした。
頬を動かそうとしても、力が入らない。唇も、思うように動いてくれない。身体が、少しずつ、私のものではなくなっていくのが分かる。
ああ、きっと、これが――。
そんな考えが頭をよぎる。でも、それ以上は考えない。考えたくない。ただ、今は。
真神様を、これ以上、悲しませたくなかった。
だから私は、もう一度だけ、声を出そうとした。
たとえ音にならなくても、たとえ届かなくても。
想いだけは、ここにあると伝えたくて。
「だめだ、祈! こんなのだめだ! くそ……くそ……!」
悠斗は叫んだ。
喉が裂けるほど声を張り上げても、現実はびくりとも動かない。腕の中にある祈の身体は、確実に冷えていく。抱きしめているはずなのに、そこにある命は、指の隙間から零れ落ちていく砂のようだった。
後悔していた。
否、そんな生易しい言葉では足りない。
胸の奥を抉るような、取り返しのつかない失敗だと、悠斗は理解していた。
一瞬だった。
祈が、ガブリエルへと襲いかかった、その瞬間。
視界の端で、大天使が立ち塞がるのを、確かに見ていた。あの時だ。あの刹那に、リネアを発動していれば――祈が受けたはずの“結果”を、自分が引き受けることができた。
ほんの一瞬。
考える暇など、なかったと言い訳することもできた。だが、悠斗は分かっている。あの時、自分は“考えてしまった”のだ。
自分が引き受けた場合に訪れる苦痛。
それがどれほどのものになるかを、悠斗は嫌というほど知っている。骨が砕け、神経が焼かれ、精神がすり減っていくあの感覚を、身体のどこかが覚えていた。
――怖かった。
深層心理で、ほんのわずかに、だが確かに。
自分が壊れる未来を、恐れてしまった。
その躊躇。
その一瞬の逡巡。
結果が、これだ。
腕の中で、祈は今も生きている。
だが、それは“生きている”というより、“死に向かっている途中”に近かった。呼吸は浅く、体温は失われ、命という概念そのものが、彼女の身体から離れようとしている。
悠斗のリネアは、結果を変えることができる。
だが、それは“これから起こる結果”だけだ。すでに起こってしまった事象、その帰結を、なかったことにはできない。
今、失われていくこの命を。
今、この瞬間に零れ落ちていく祈の生を。
悠斗は、救えない。
変わってやりたい。
自分が代わりに壊れたい。
どんな苦痛でも、どんな代償でも、引き受けると願っても。
もう、遅い。
平田梨花の顔が、脳裏をよぎる。
あの時も、同じだった。
救えたはずだと思い続けてきた。違う選択があったのではないかと、何度も何度も、自分を責めてきた。
そして今。
まただ。
目の前にいる少女も、救えない。
悠斗の胸に、重たい何かが沈み込んでいく。
力が抜け、思考が鈍り、世界が遠ざかっていく。無力感という言葉では表現しきれない、圧倒的な敗北感。
守ると誓った。
離さないと決めた。
それなのに。
その約束を、また果たせなかった。
悠斗は、祈を抱く腕を、強く、強く締めた。
失われていく命を、せめて最後まで感じ取るために。
その温もりが消えてしまう瞬間を、
自分だけは、絶対に、目を逸らさないために。
「僕は……僕は……だれも救えない……」
声に出した瞬間、その言葉は重く胸に沈んだ。
分かっていたことではないか、と悠斗は自分自身に言い聞かせる。いや、言い聞かせるまでもない。自分の口で、確かに言ったはずだ。人を救おうとしてはいけない、と。翡翠祭りのあの日、結乃に向かって、はっきりと。人を救おうとするなど傲慢だと、自分はそう断じた。
それなのに。
結局、自分は何をしていた。
救えもしないくせに、手を伸ばし、期待を抱き、希望を見せてしまった。その結果が、今、目の前にある現実ではないのか。人を救う力など持たない人間が、救おうなどと願った時点で、誰かを不幸にすることは決まっていたのではないか。
傲慢だったのは、他でもない。
自分だ。
悠斗は、俯いたまま、拳を握りしめる。
分かっていたはずの結論に、ようやく辿り着いただけなのに、その事実は、ひどく残酷だった。
救えない。
最初から、そういう存在だったのだと。
「ち……がい……ます」
か細く、今にも消えそうな声だった。
それでも、確かに祈はそう言った。
違う。
その言葉は、翡翠祭りのときにも聞いたものだった。祈はあの時、静かに、しかし迷いなく言ったのだ。知らない百人を救うことではなく、愛していると思う相手を救おうとする、その心こそが尊いのだと。
悠斗も、そう願っている。
誰彼構わず救いたいわけじゃない。ただ、失いたくない人を、目の前から消したくないだけだ。祈も、その一人だった。
それなのに。
現実は残酷だった。
腕の中の少女は、今この瞬間も死に近づいている。救えない。何を願っても、どれだけ想っても、結果は変わらない。救えない。救えない。救えない。その言葉が、思考を塗り潰していく。
希望は、あったはずなのに。
意志も、覚悟も、確かにあったはずなのに。
それでも、届かない。
悠斗が絶望の淵に立たされ、世界が色を失いかけた、その時。
場違いなほど温和な声が、静かに、しかし確かに、その場に響き渡った。
「……」
「かわいそうな迷える子羊よ、神の声を聴きなさい。神はいつでもあなたのそばにいるのです。その少女の事は残念です。ですが悲しむことはありません。必ず神の御業により、いつまでも一緒にいられることでしょう」
耳にまとわりつく声だった。
優しさを装った響き。慰めを装った断定。そのすべてが、悠斗の神経を逆撫でする。
――うるさい。
心の中で吐き捨てても、声は止まらない。
「さあ……真神悠斗さん。あなたも敬虔な信徒になりませんか?神はあなたの手を待ち望んでいる。一緒にトマ様を崇拝し、神のお言葉を伝道師として活動しましょう」
うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい。
祈の体温が失われていく現実を前にして、救いを語るその口調が、どうしようもなく許せなかった。悲しむな、と言う。残念だ、と言う。それだけで、すべてを神の御業という言葉に押し込める。
「さあ、さあ!」
背中に手を置かれた気がした。
引き寄せるような、逃げ道を塞ぐような声。
悠斗は、ゆっくりと顔を上げた。
笑ってはいなかった。ただ、諦め切ったような目で、淡々と口を開く。
「そうだな……それが僕の罰なんだな」
空気が、わずかに弾む。
「そう。罪を認めることは信仰の第一歩です。自らの過ちを認め、前に進むための贖罪なのです」
肯定されることの、気持ち悪さ。
理解されたという錯覚が、さらに深く心を縛りに来る。
「罪人である僕は……僕は……」
声が、わずかに揺れた。
だが、その続きを待つように、声は被せてくる。
「悔い改めるのです。一緒に神の御業に心をゆだねるのです」
その瞬間。
悠斗の中で、何かが静かに、だが決定的に切り替わった。
「罪人を裁く」
低く、抑えた声だった。
祈に向けていた感情とは、まったく別の温度。
「はい?」
戸惑いが、初めて混じる。
悠斗は、視線を逸らさない。
救えなかった後悔も、無力感も、そのすべてを抱えたまま、ただ静かに立っていた。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「怠惰過失致死罪」
悠斗の声は低く、冷えていた。
それは宣告だった。他人の死という結果を、自らに引き受け、その重みごと相手に反映させる――逃げも赦しも存在しない、裁定の術理。
次の瞬間―――
闇が、裂けた。
底知れぬ暗黒の奥から、本物の死神が姿を現す。死者を導き、死者の国を統べる支配者、ハデス。その存在が放つ圧倒的な死の気配に、空気そのものが沈黙した。
死神は、神の使いである大天使ガブリエルを見据え、ただ一言、告げる。
――死罪だ。
ぐわっと、ガブリエルの口から、魂のようなものが強引に引きずり出される。
光でも影でもない、悲鳴を上げる存在。
「なに、これは……貴様! 真神悠斗! 貴様、これはトマ様に対する何たる侮辱……!」
叫び声は、もはや威厳を失っていた。
「魂の掌握は、トマ様にのみ許される権能だ! 貴様ごときが扱おうなど……!」
そこに、余裕の笑みはない。
ガブリエルの瞳にあるのは、怨嗟と憎悪。神への冒涜、神への反逆だと、憤怒をむき出しにして悠斗を糾弾する。
だが、その叫びは――
すでに、死の裁定の中にあった。
しかし、悠斗の目は、すでにガブリエルには向いていなかった。
その視線が捉えているのは、腕の中に抱く、ただ一人の存在。大事で、大事で、“救いたい”と願ってしまった少女だけだ。
ハデスが手を伸ばす、その先から。
悠斗は、少女の魂を奪い返そうとしていた。理屈も、秩序も、神の都合も、すべて無視して、その作業に全力を注いでいる。背後で何が起きていようと、ガブリエルが何を叫んでいようと、もはや眼中にない。
救う。
必ず、救う。
取りこぼしてばかりだったこの腕で、今度こそ。
今だけは、絶対に救う。
たとえ、何を犠牲にしようとも。
自分の未来でも、身体でも、魂でも構わない。代償という言葉が意味を持たなくなるほどの覚悟が、悠斗の中で燃え上がっていた。
それは理性ではない。
執念であり、猛執であり、もはや執着と呼ぶべきものだ。
狂っている。
そう言われても否定できない。
だが、その狂気の奥で、悠斗の瞳に映っているのは、ただ一つ。
少女の瞳だけだったーー




