第三十四段 甲貝は、ほら貝のやうなるが
(原文)
甲香は、ほら貝のやうなるが、ちひさくて、口のほどの細長にして出でたる貝のふたなり。
武蔵国金沢といふ浦に有りしを、所の者は、「へなだりと申し侍る」とぞ言ひし。
(舞夢訳)
甲香は、ほら貝のような形をしていて、小さく、口のあたりが細長く突き出している貝の蓋である。
武蔵の国の金沢という浦で見たことがあって、現地の人は「へなたりと呼んでいます」と、言っていた。
※甲香:練香の調合に用いる香料。長螺、赤螺など巻貝などの蓋を用いるので、貝香と呼ぶ。「甲」は当て字。
原材料である貝を酒につけたり、灰で煎じたり、さらに複雑で様々な工程にて精製する。
精製した甲香は、粉末状のもので、それを他の香料と調合する。
本文中には、その原材料としての、貝の形状が述べられている。
※武蔵国金沢:現神奈川県横浜市金沢区金沢。
さて、東国では「へなたり」と呼ばれているようなものが、複雑な精製の過程を経て、やがては都の貴族の男女に珍重されることになる。
へなたりの、出世物語とまでは言わないけれど、地方では使用もされず評価もないような貝なのだろうか。
それほどの寓意を感じる文章ではない。
ただ、貴重な香料の原材料は、こんなもの、東国ではどうというものではないと、言いたかっただけなのかもしれない。
もともとの由来など知らずに、ありがたがる貴族の男女への、ちょっとした皮肉とも、取れる。




