第二百四十一段 望月のまどかなる事は(2)
(原文)
いふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度、もしたちなほりて命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事、怠らず成じてんと、願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず、取り乱して果てぬ。このたぐひのみこそあらめ。この事、まづ、人々急ぎ心に置くべし。
所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄心迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下して道に向ふ時、さはりなく、所作なくて、心身永くしづかなり。
(舞夢訳)
如何ともしがたく、長い年月の怠惰を悔やみ、今回は仮に回復して命が助かったとして、その後は昼も夜も別なく、この事やあの事を、怠けずに成就しようと思うけれど、結局病状は再び悪化し、正気を失い、取り乱したまま命を落としてしまう。
そして、この世においては、このような例ばかりなのである。
所願を成就した後に、時間を確保して仏道に励むとするような考えであるならば、所願そのものが、尽きるはずがない。
結局、この幻のような現世において、何をなすことが出来るのだろうか。
願望というものは、全て例外なく妄想に過ぎないのである。
願望などが心に起きたなら、自分の心が汚れて迷い乱れていると考え、何もしてはならない。
ただちに全てを投げ捨てて、仏道に向かう時こそ、何の障害もなく、用事もなく、心身が長く静まるのである。
この世は無常であるから、余計な願望は抱かず、万事を捨てて、仏道に励むべきであるとの説になる。
ただし、それは兼好氏のような、裕福に財産収入がある人だから可能なことである。
普通は、衣食住、そして男女や家族に対しての、様々な願望に引きずられて一生を送るのが、大半の人間なのである。
全てを捨てて、座禅や読経三昧に励むなどは、実際はほとんどの人は無理。
そういった実体を知っているからこそ、阿弥陀仏は念仏を唱えるだけで、極楽往生への救いを約束したのである。
その意味で、この段の兼好氏の説には、いささか承服しがたい思いが、消えない。




