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第二百三十八段 御随身近友が自賛とて(3)

(原文)

一、常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鋳型にうつさせんとせしに、奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」とて、筆者の許へ言ひやりたるに、「あやまり侍りけり。数行と直さるべし」と返事侍りき。数行もいか)なるべきにか、若し数歩の心か、覚束なし。

数行なほ不審。数は四五也。鐘四五歩不幾也。ただ、遠く聞ゆる心也。


※常在光院:東山の寺院。知恩院の境内にあったらしい。現在は未詳。

※在兼卿:菅原在兼(1249-1321)。文章博士。伏見天皇から後醍醐天皇まで五代の侍読を勤めた。 

※行房朝臣:勘解由小路行房。世尊寺流。能書家として知られた。行成の子孫。

※花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ:「鐘が鳴って、花の向うまで夕方を告げ知らせると、鐘の音は百里先まで聞こえる」の意味。

※陽唐の韻:陽韻と唐韻。どちらも平声で終わるのに、「百里」の「里」は紙旨の韻(上声)で、ちぐはぐなので、間違いではないかと指摘したもの。

※数行も如何なるべきにか:数行もどんなものだろうか。適切な修正とは思われないの意。「数行」は陽韻の場合は行列という意味、庚韻の場合は行歩という意味になる。陽韻とすると行列という意味がちぐはぐで、行歩という意味に取ると庚韻となり韻がちぐはぐになり、どちらにしても不都合であるの意。


(舞夢訳)

一、常在光院の釣り鐘の銘文は、在兼卿の下書きによる。

それを行房朝臣が清書をして、鋳型に取ろうとする時に、現場を取り仕切る某入道が、下書きを取り出して、私に見せてくれた。

私は、「『花の外に夕べを送れば、声百里に聞ゆ』との句がありますので、『陽唐の韻を踏んでいると思うのですが、そうなると『百里』は間違いではないでしょうか」と申し上げた。

某入道は、「あなたにお見せしてよかった、これは私の手柄になります」とのことで、筆者のもとに進言したようだ。

その後、「間違いがありました。『百里』を『数行』と直してください」との返事があった。

しかし、「数行」とは何だろうか。あるいは「数歩」のつもりなのだろうか。

その点が、どうにも釈然としない。

「数行」はやはり納得できない。「数」とはせいぜい、四か五である。

鐘の音が四歩か五歩程度にしか届かないのは、おかしい。

要するに、単に遠くまで聞こえるとの意味なのである。

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