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ある大福長者の言はく(4)

(原文)

そもそも人は、所願を成ぜんがために、財を求む。

銭を財とする事は、願ひをかなふるがゆゑなり。

所願あれどもかなへず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者とおなじ。

何をか楽しびとせん。

このおきては、ただ人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。

欲を成じて楽しびとせんよりは、しかじ、財なからんには。

ようを病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんにはしかじ。

ここに至りては、貧富分く所なし。究竟は理に等し。

大欲は無欲に似たり。



よう 悪性のできもの。 

※究竟は理即に等し:悟りの境地と迷いの境地は本質的には等しいこと。「究竟」は天台宗の悟りの境地。「理即」は凡夫の迷いにとらわれた状態。それらは本質において等しいとする。



(舞夢訳)

そもそも人間はその願望を達成する手段として財産を求めるものである。

金銭を財産とするのは、それにより願望が達成するかたなのである。

願望があっても、それを満たさず、金銭があってもそれを使用しないのなら、それは貧者と全く同じことになる。

そのようなことで、何を楽しみに生きるのであろうか。

そのような戒めは、ただ人間としての世間的な欲望を断ち切り、貧乏を苦としてはならないとの意味に聞こえて来る。

欲望を達成して、楽しみとするよりは、財宝がないほうがましかもしれない。

ようを病む人が、その患部を水で洗い、気持ちが良くなるよりは、そもそもそのような病にかからないほうが、ましと思う。

このような考えに至れば、貧富の区別はない。

最高の悟りの境地と、最低の迷いの境地は、実は同一である。

それと同じことで、大欲は無欲と似ているのである。




前回までに紹介した金満長者の話のほうが、納得できる部分が多い。

しかし、今回の部分は、兼好氏の持論になるけれど、無理やり「究竟は理に等し」など難解な話を持ち出して、ますますわかりづらくしている。

金満長者は富を持つことの幸福と大切さを説くけれど、兼好氏はそれを単なる自己満足であり、禁欲主義と断じている。


研究者の間で、兼好氏の理論展開に真意がわかりづらいとの評判の段になる。

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