第百七十五段 世には心得ぬ事の多きなり(4)
(原文)
かかる事をしても、この世も後の世も益有るべきわざならば、いかがはせん。
この世にはあやまち多く、財を失ひ、病をまうく。
百薬の長とはいへど、万の病は酒よりこそおこれ。
憂忘るといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。
後の世は、人の知恵を失ひ、善根を焼くこと火のごとくして、悪を増し、万の戒を破りて、地獄におつべし。
「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。
※酒を取りて人に:「若し自身手に酒器を過して人に与へて酒を飲ましむれば、五百世手無からん」(梵網経)。
※五百生:五百回輪廻して生まれ変わる間、いつまでもの意。
(舞夢訳)
このようなことをして、現世でも来世でも、益があるのなら仕方がない。
しかし、現実のこの世では、酒を原因とする失敗が多く、財産を失い、病気を招く。
百薬の長とは言うけれど、全ての病気は酒より起こる。
人生の憂いを忘れるとは言うけれど、酔った人は、過去の憂いを思い出して泣いているように思う。
人としての知恵を失わせ、善行の功徳は炎が物を焼き尽くすように失わせ、悪行を積ませ、全ての戒めを破らせ、来世には地獄に落ちることになるだろう。
「酒を手にして他人に飲ませた人は、以後五百生の間は手がない者として、転生を続ける」と、仏はお説きになられているようだ。
本来仏教では、「飲酒」は五戒の一つで、それ自体が重大な破戒行為。
ただ、現実には「般若湯」などといい、守られることはなかった。
人は何等かの理由や方法を見つけて、酒や薬等を用いて、現実逃避をしたがる。
自分自身への被害なら自業自得になるけれど、他者への被害は問題が大きい。
いずれにせよ、程度の問題ではないだろうか。
完全に遮断することも出来ないのだから。




