第百七十五段 世には心得ぬ事の多きなり（１）
（原文）
世には心得ぬ事の多きなり。
ともあるごとには、まづ酒をすすめて、強ひ飲ませたるを興とする事、いかなるゆゑとも心得ず。
飲む人の顔、いと堪へがたげに眉をひそめ、人目をはかりて捨てんとし、逃げんとするを捕へて、ひきとどめて、すずろに飲ませつれば、うるはしき人も、たちまちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒れ伏す。
祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。
あくる日まで頭痛く、物食はず、によひ伏し、生を隔てたるやうにして、昨日の事覚えず、公・私の大事を欠きて、煩ひとな
人をしてかかる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にもそむけり。
かく辛き目にあひたらん人、ねたく、口惜しと思はざらんや
人の国にかかる習ひあなりと、これらになき人事にて伝へ聞きたらんは、あやしく不思議に覚えぬべし。
（舞夢訳）
この世間には、わけのわからない事が多いものである。
何かあるたびに、まず人に酒を勧めて、無理やりに飲ませようと面白がるのは、何故なのか理解できない。
無理やり飲まされる人が、実に堪えがたそうに眉をひそめて、他人の目を忍んで盃の酒を捨てようとしたり、また酒を飲まされないようにと逃げるのを捕まえて、その仲間に引き留めて無理やり飲ませてしまうと、日ごろは立派な人もたちまち狂人のようになって常軌を逸した振る舞いをし、元気な人も、見る見るうちに大病を患う人となって、前後不覚となり倒れ伏してしまう。
そんなことが、祝うべき晴れがましい日にあったならば、実に惨めである。
翌日まで、頭痛に悩まされ、食事も出来ず、うめきながら、生を隔てた前世にように、昨日の事は覚えていないし、公私の大事に問題を生じて、悩みの原因となる。
他人をこのようなひどい目に遭わせる事は、慈悲が無く、礼儀にも反している。
そして、このような辛い目に遭った人が、妬ましく口惜しく思わないはずがない。
他国にはこんな風州があるらしいと、わが国にはない他所事として伝え聞いたなら、実に奇妙で不思議な風習と捉えるに違いない。
確かに下戸に無理やり酒を飲ませて面白がるのは、実に無慈悲で暴力的である。
大学の新入生歓迎コンパでは、死人さえ出る。
酒はその勧め方によって、百薬の長ともなり、死出の道に誘う毒薬にもなる。
