第百七十三段 小野小町が事
(原文)
小野小町が事、きはめてさだかならず。衰へたるさまは、玉造と言ふ文に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。
大師は承和のはじめにかくれ給へり。
小町が盛りなる事、その後の事にや、なほおぼつかなし。
(舞夢訳)
小野小町のことについては、まったくよくわからない。
容色が衰えた頃のことについては、「玉造」という文に書いてある。
さて、この文は清行が書いたとの説があるけれど、高野大師の御作の目録にも入っている。
しかし、その大師は承和の初め頃に、お亡くなりになっている。
小野小町の最盛期は、その後の事になると思うので、やはりあやふやなのである。
小野小町は平安中期の女流歌人、生年は820年から830年までの間らしい。
家系、伝記は未詳。美貌と歌の才能(六歌仙)だけは、あまりにも有名。
「玉造」は『玉造小町壮衰書』落魄した美女のありさまを描いたものになるけれど、ここに書かれた、衰えたかつての美女が、小野小町のことかであるとは限らない。尚、清行は、三善清行。参議。延喜18年(918年)没。
高野大師は空海。その没年の承和のはじめは、承和二年(835)三月になるので、小野小町の生年が820年から830年なので、どう考えても女盛りとは言えない。
兼好氏は、いろんな説があるけれど、「どれも違うのではないか」と危ぶんでいる。それ以前の話として、そもそも、美人が衰えたことを文にするなど、無粋の極みなのかもしれない。




