第百六十段 門に額懸くるを
(原文)
門に額懸くるを、「打つ」といふはよからぬにや。
勘解由小路二品禅門は、「額懸くる」とのたまひき。
「見物の桟敷打つ」もよからぬにや。
「平張打つ」などは常の事なり。
「桟敷構ふる」などいふべし。
「護摩焚く」といふも、わろし。
「修する」、「護摩する」などいふなり。
「行法も、法の字を清みていふ、わろし。濁りていふ」と、清閑寺僧正仰せられき。
常に言うふ事に、かかる事のみおほし。
※勘解由小路二品禅門:藤原経尹。。行成の子孫。書家。「二品」は二位の別名。「禅門」は在家のまま仏門に入った男性。
※桟敷打つ:桟敷を設ける際に、材を釘で打ち付けることに、由来するらしい。
※平張打つ:小屋を作る際、柱を立てて、その上に幕を張って屋根とする際に、柱にとめ金を打ち付けて固定することに由来するらしい。
※護摩を焚く:護摩の語自体に、焼く意味があるので、重複となる。
※清閑寺僧正:権僧正道我。『続千載集』の勅撰歌人。兼好と交流があった。清閑寺は京都市東山区清閑寺山ノ内町。清水寺の南。もと天台宗。現在は真言宗。
(舞夢訳)
門に額を懸けることを、「打つ」と言うのは、不適切なのであろうか。
勘解由小路二品禅門は、「額懸くる」と、仰せられた。
「見物の桟敷を打つ」も、不適切なのだろうか。
「平張打つ」などの言い方は、常に行っている。
「桟敷をかまふる」と言うべきである。
「護摩を焚く」と言うのは不適切である。
「修する」、「護摩する」などと言うのである。
「行法と言う言葉も、法の字を濁って、ぎょうぼうと言う」と、清閑寺僧正が仰せられた。
普段、何気なく話をしている中で、このような不適切な言い方が、実に多い。
言葉の使い方は、その時代により、変遷するものもあり、変わらないものがある。
また、言葉を使う人全てが、正確に言語の意味を理解して使っているわけではない。
理論的には間違っていても、感覚的に納得できれば、そのまま、間違ったままで、定着してしまう場合もある。
兼好氏の時代でもそうであったのだから、現代と現代以降は、どうなるのだろうか。
文字だけをとっても、漢字、カタカナ、ひらがな、アルファベット、数字、実に様々な文字があふれ、最近は絵文字、顔文字まで登場している。
良し悪しを論じる状態ではないかもしれない。
ただ、その文字や言葉を交わしあう人同士が、通じるか否かだけになるのかもしれない。




