第百五十七段 筆を執れば物書かれ
(原文)
筆を執れば物書かれ、楽器を取れば音をたてんと思ふ。
盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たん事を思ふ。
心は必ず事に触れて来たる。
かりにも不善の戯れをなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文も見ゆ。
卒爾にして多年の非を改むる事もあり。
かりに今、この文をひろげざらましかば、この事を知らんや。
これ則ち触るる所の益なり。
心さらに起らずとも、仏前にありて数珠とり、経を取らば、怠るうちにも、善行おのづから修せられ、散乱の心ながらも、縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。
事・理もとより二つならず。
外相もし背かざれば、内証必ず熟す。
強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。
(舞夢訳)
筆を持てば自然に何かを書き、楽器を持てば音を鳴らそうと思う。
盃を持てば酒を飲もうと思い、賽を持つと賭け事をしたくなる。
そのように、心は必ず何かの物事に触発されて動く。
だから、仮にも不善の戯れ事をしてはならない。
ほんの一瞬でも、仏典や経典の一句を目にすれば、何となく前後の文もわかる。
それにより、意図せず、長年の過ちを改める事もある。
仮に、今、この文を広げてみなかったならば、その利益を知ることが出来ただろうか。
これが即ち、聖教に触れたことによる利益なのである。
御仏を信じる心が特別に湧き上がって来ないとしても、仏前にて数珠を持ち、経文を手に持てば、怠けているような状態であっても、その善業を自然に行っていることになる。
心が乱れている状態であっても、座禅を組む椅子に座れば、いつの間にか自然に禅定の境地に至るのである。
目の前に起きる現象と、真理は別の物ではない。
外に現れた姿が、理に外れていなければ、内面の悟りは必ず成就する。
外に現れた姿に、強いて不信を言うべきではない。
それより、むしろ仰いで尊ぶべきなのである。
何気なしに手に取るもの、仏典を開き目に入って来る一句など、目の前に起きるもの全ては、仏縁、仏恩により生じるし、思いがけない利益もある。
それゆえに、不用意におろそかにするべきではなく、出来るだけ誠心誠意、接するべきである。
一期一会に通じる理論だろうか。
確かに出来る限りの誠意を、目の前の対象に示すことは、素晴らしい理論。
難しいのは、「出来る限り」の幅。
つい体調が悪い、眠い時も含めて、出来る限りに相当の幅が出来る。
怠け者の言い訳に過ぎないかもしれないけれど。




