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第百四十四段 栂尾の上人

(原文)

栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にして馬洗う男、「あしあし」と言ひければ、上人立ちとまりて、「あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ、あまりに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候」と答へけり。

「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙をのごはれけるとぞ。


※栂尾の上人:明恵上人。寛喜4年(1232年)入寂。60歳。京都市高山寺を再興し、華厳宗の中興の祖となった。尚高山時には国宝「鳥獣戯画」がある。

※宿執開発の人:前世での善根功徳が現世で身を結んだ立派な人。 

※阿字:サンスクリット語の第一母音に漢字をあてたもの。この音が元になってすべての音が生れるので、密教では宇宙の根元として、絶対視する。

※府生殿 六衛府か検非違使庁に置かれた下級役人。

※阿字本不生 阿字が絶対的な存在で、不生にして不滅であるとする思想。

※結縁:仏道に縁を結ぶこと。


(舞夢訳)

栂尾の明恵上人が、道をお通りになっていると、河で馬を洗っている男が、「あし、あし」と言っていた。

上人は、立ち止まって、

「いや、これは実に尊いことである。この男は、前世の功徳が結実した素晴らしい人なのである。そのために阿字、阿字と唱えているのだろう。どのようなお方の馬なのであろうか。あまりにも尊く思われる」

と、お尋ねになられると、男は、

「府生殿の御馬であります」

と答えた。

上人は、

「これももまた、めでたい事である。すると阿字本不生であるようだ。実に素晴らしい結縁となったことだろうか」

とおっしゃり、涙まで流されたと言われている。




明恵上人は、修行に行き詰まり、外から聞こえる音が修行の邪魔として、自らの耳を削ぎ落す、ほどのストイックな僧侶だった。

また、法然が唱え始めた浄土の教えを、救いが簡単すぎて邪を招くとして、猛烈に批判した僧侶。


その明恵上人は、「あし」を「阿字」と聞き間違い感動し、下級役人の府生と阿字本不生と結び付け、涙まで流す。


ほぼ関係がないようなことさえ、自らの信仰に結び付け、曲解して涙まで流す。

この逸話を、客観的に言動を考えると、いささか浮世離れを通り越して、自らの信仰へに執着が強すぎ、常軌を逸しているのではないだろうか。

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