第百三十九段 家にありたりき木は(2)
(原文)
梅は白き、薄紅梅。
一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし。
遅き梅は、桜に咲きあひて、覚えおとり、けおされて、枝にしぼみつきたる、心憂し。
「一重なるが、まづ咲きて散りたるは、心疾く、をかし」とて、京獄入道中納言は、なほ一重をなん、軒近く植ゑられたりける。
京極の屋の南向きに、今も二本侍るめり。
(舞夢訳)
梅は、白いのがよい。薄紅梅もよい。
一重の梅が早々と咲いているのも、重なった紅梅の香りが素晴らしいのも、みな魅力がある。
遅く咲いた梅は、桜とともに咲き、人から見られることが少なく、桜に圧倒されて枝に花がしがみついているような感じで、おもしろくない。
「一重の梅が、まず咲いて、ほどなく散ってしまうのは、気配りのためだろうか、実に趣深い」と、京極入道中納言がその言葉の通りに、一重の梅を軒近くに植えられたと言う。
今も、京極邸の南向きに、二本あるらしい。
※京極入道中納言:藤原定家。
枕草子を意識した文体に思う。
桜の話の後に、梅の話を書くのは、何の意味があるのだろうか。
遅咲きの梅が桜と競い合うことの、残念さを書きたかったのかもしれない。
とにかく、梅も桜も、その時期に咲き、あっさりと散ることを良しとしたようだ。
ただ、その美学も、人間の我がままに過ぎない。
梅にしろ、桜にしろ、好き勝手に咲いて散るだけで、何ら人間の思惑など気にしてはいない。




