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第百三十七段 花はさかりに、月はくまなき(9)

(原文)

兵の軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。

世を背ける草の庵には、しづかに水石をもてあそびて、これをよそに聞くと思へるは、いとはかなし。

しづかなる山の奥、無常のかたき競ひ来らざらんや。

その死に臨める事、軍の陳に進めるに同じ。


(舞夢訳)

兵士が戦争に赴く時は、その死が近い事を覚悟し、家のことも、我が身のことも忘れる。

しかし、世間を離れた草庵にいるからと言って、しずかに水や石を眺めて、死ぬことなどを自分とは関係がないと思うなどは、実に無意味なことである。

静かな山奥にいたとしても、生死の無常という敵が襲い掛かって来ないという理屈はないのだから。

どんな環境にいたとしても、いつ死ぬかわからない状態にあるということは、軍中にいて行軍を進める兵士と同じなのである。




戦場にいて直接殺し合いをしていても、静かに草庵生活を営んでいたとしても、無常は無常、いつ死ぬかはわからない、むしろ、目の前にあると思うべきである。


確かに戦場にいても必ず生き残る人もいるし、のん気な草庵生活をしていても、あっけなく死んでしまう人もいる。


兼好氏は、知人からとか、世間の噂で言われていたのかもしれない。

「世捨て人はのん気で、よろしいな」

それに、「そうではない」と、無常論で反発したのではないか。

死亡率で考えれば、どう見ても、兵士のほうが高いはず。

それに敵に傷めつけられ激痛の中、首も斬り取られて、死ぬ。

「死は同じ」とは言うけれど、その悲哀と辛さには、差があるのではないか。


少なくとも満足して死ぬ場合と、嘆きと苦しみの中で死ぬ場合では、大きな違いがあると思うのだけど。

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