第百三十七段 花はさかりに、月はくまなき(8)
(原文)
継子立てといふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その他は逃れぬと見れど、またまた数ふれば、かれこれ間抜き行くほどに、いづれも逃れざるに似たり。
※継子立て:。碁石を使った遊戯。白黒十五個ずつ三十個の碁石を円形または方形にならべる。ある石から十個目の石をとりのぞく。以後、順番に十個目の石を取り除き、最後に残った石を勝ちとする。
(舞夢訳)
継子立てをいうものを、双六の石で作り、石を並べた時点では、どの石が取られるとまでは想定できないけれど、数えて当たった石を一つ取り去ると、その他の石は取られることを免れたように見える。
しかし、次々に数えて、一つずつ間引いていくと、結局どの石であっても、全て取られてしまうのが、人間が世の無常からの逃れられないこととも、似通っていると思う。
兼好氏は、碁石を使った遊戯は、無常の世界と似ているとする。
結局、どんな人も「石を取られる=命を落とす」からは避けられないということなのだと、論を進める。
さて、人生は生まれてから死ぬまでの、遊戯なのだろうか。
どんなに清廉潔白に生きた人も、悪辣非道に生きた人も、必ず訪れる、誕生と死。
自分自身は、その人生のゲームにおいて、どんなキャラクターを選ぶのか。
時により清廉潔白、時により悪辣非道、または中途半端。
さて、過去はともかく、今後どうするのか、たまには自分自身のいつ奪われるかわからない命をテーマに考えてみるのも、大切なのかもしれない。




