第百三十七段 花はさかりに、月はくまなき(7)
(原文)
かの桟敷の前をここら行きかふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。
この人みな失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。
大きなる器に水を入れて、細き穴をあけたらんに、滴る事少なしといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。
都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。
一日に一人、二人のみならんや。
鳥辺野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。
されば、棺をひさくもの、作りてうち置くほどなし。
若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。
今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
しばしも世をのどかには思ひなんや。
(舞夢訳)
祭りの桟敷の前を往来する数多くの人の中に、顔見知りが多いことから、世の中の人数などは、それほど多くないことがよくわかる。
この往来する人が全員死んでしまい、自分が死ぬ時が定まったとしても、それほど待つ時間はないのだろう。
大きな器に水を入れて、細い穴をあけた場合に、滴る水は少ないけれど、絶え間なく洩れるので、やがては水は尽きてしまう。
都にいる数多い人が、誰も死なない日などはない。
死ぬ人は、一日に一人や二人ではないだろう。
鳥辺野や船岡、その他の野山でも、死者を数多く送る日はあっても、送らない日はない。
そのため、棺を作って売る人は、作り置きなどの余裕がないほどである。
若い人でも、強い人でも関係なく、全く予想がつかないのが死というものである。
それを考えると、今日まで生きながらえて来たことが、実にありえないような奇跡なのである。
そのことを考えれば、少しの間であっても、のどかに過ごすなどとはいかないだろう。
兼好氏の筆は、余情の世界や、祭り見物の話から、いつ死ぬかわからないの話に進む。
要するに、どんな人でも、いつ死ぬかわからない、だから今を大切に、ということなのだと思う。
無常論であり、禅の心の核心「一期一会」そのものにも通じることである。




