第百三十七段 花はさかりに、月はくまなき(5)
さやうの人の祭見しさま、いと珍らかなりき。
「見事、いとおそし。そのほどは桟敷不要なり」とて、奥なる屋にて酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」といふ時に、おのおの胆つぶるるやうに争ひ走りのぼりて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見洩らさじとまぼりて、「とあり、かかり」と、物ごとに言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひておりぬ。
ただ、物をのみ見んとするなるべし。
都の人のゆゆしげなるは、睡りて、いとも見ず。
若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に候ふは、様あしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。
(舞夢訳)
そのような片田舎の人が賀茂祭を見物する様子は、実に珍しいことであった。
「行列が来るのが、本当に遅い。来るまで桟敷で待つなんて意味が無い」と言って、奥の部屋で酒を飲み、物を食い、囲碁や双六で遊ぶ。
桟敷には見張りの者を置いてあって、「行列が来るようです」と言う時に、全員が大慌てで他人を押しのけてまで桟敷にのぼり、その下に落ちそうなほどに簾の後から身を乗り出す。
押し合いながら、どんな細かい事も見逃さないようにと、目を凝らし、「あれやこれや」と、何かを目にするたびに言い合う。
その行列が通り過ぎてしまえば、「また次の行列が来るまで、どうでもいい」と、おりてしまう。
要するに、彼らが見たいのは、行列という物だけなのである。
このような片田舎の人々に対して、都で暮らす人で、特にそれなりの見識を持っている人は、目をしっかりと開けることもなく、ほとんど行列などは見ない。
また、若くて、まだ身分が低い人は、主君への奉仕で大忙し。
貴人の後に仕える人は、そもそも恥ずかしくも身を乗り出すことなどできないので、無理やりに見ようとする人などは、いないのである。
「片田舎の人々」の、風情も恥も知らない振る舞いが、具体的にかかれている。
それにしても、神聖かつ伝統ある行事に対して、見たいという欲望丸出しの下品な所作の連続である。
片田舎の人々にとっては、うれしくてしかたがない憧れの賀茂祭。
ただ、そもそも風流などを解さない、祭りとあれば飲んで食って遊んで騒ぐだけの人々。
他者に対する配慮にも欠け、まさに「旅の恥はかき捨て」そのもの。
いや、そもそも「恥とか他人への迷惑」」などは、全くその意識のカケラもない。
兼好氏の落胆に満ちた叙述も、よくわかる。




