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第百三十四段 高倉院の法華堂の三昧僧(3)

(原文)

すべて、人に愛楽せられずして衆に交はるは恥なり。

かたち見にくく、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交り、不堪の芸をもちて堪能の座につらなり、雪の頭をいただきて盛りなる人に並び、況んや、及ばざる事を望み、叶はぬ事を憂へ、来らざる事を待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心にひかれて、みづから身を恥づかしむるなり。

貪る事の止まざるは、命を終ふる大事、今ここに来れりと、確かに知らざればなり。


(舞夢訳)

すべてにおいて、他人から好まれていないにも関わらず、世間の人々と交わるということは、恥なのである。

容姿が醜く、才覚も見識もないのに出仕し、無知であるのに博学の人たちと交流し、芸が未熟であるのに名人たちと同席し、雪のような白髪頭になりながら壮年の人々と肩を並べ、それどころか、及びもつかない事を望み、それが実現しないことを憂い、実現しない事を待ち、他人を恐れたり、媚を売ったりするのは、他人がかかした恥ではない。

自らの欲望に目がくらみ、自分自身でその身を恥ずかしめているのである。

そのような欲望から抜け出せないのは、自らの死という大事が、今目前に迫っていることを、身にしみて自覚していないからなのである。



自らの程度をわきまえず、場違いであることもわからず、ただ世間を渡り歩き、結局は恥をさらす。

やや飛躍する話になるけれど、自らは中途半端な芸しかもたない芸人が、ワイドショーなどで、大芸術家を面白半分に批判し、また出演者も大笑いしていることがある。

自分自身の芸では、全く勝負にならない、売り物にならないのような修行不足、芸不足であるにも関わらず、おそらく安い出演料で大芸術家の至芸を貶めるのである。

そして、そういう批判しかできない芸人が売れる時期は、非常に短い。

やはり、そういう芸人は、自らの「受ける時期の終わりが目前である」ことを全く理解せず、芸の修練などには励まないのだと思う。

そして、その芸人がお払い箱になっても、大芸術家の至芸は残り続けることになる。

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