第百三十四段 高倉院の法華堂の三昧僧(2)
(原文)
賢げなる人も、人の上をのみはかりて、おのれをば知らざるなり。
我を知らずして、外を知るといふあるべからず。
かたちみにくけれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道のいたらざるをも知らず。
身の上の非を知らねば、まして外のそしりを知らず。
但し、かたちは鏡に見ゆ。
年は数へて知る。
我が身の事知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞいはまし。
かたちを改め、齢を若くせよとにはあらず
拙きを知らば、なんぞやがて退かざる。
老いぬと知らば、なんぞ閑に身を安くせざる。
行いおろかなりと知らば、なんぞこれを念ふことこれにあらざる。
(舞夢訳)
賢そうな人であっても、他人のことばかりをあれこれ言及をしているだけで、自分自身のことについては、よくわかっていないものである。
そもそも、自分自身の程度についてわかっていないにもかかわらず、他人についてわかるなどという、道理などはない。
その意味において、自分を知る者を道理を知る者と、言うべきなのである。
自分の容姿の醜さを知らず、心の愚かさを知らず、持つ芸の拙さを知らず、取るに足りない身分であることを知らず、すでに老いていることを知らず、病気に冒されていることも知らず、もはや死が近いことも知らず、目指した修行が不十分であることも知らない。
そのような自分自身の欠点を知らないのだから、まして世間で批判されていることも知らない。
ただし、これらの中で、容姿については鏡を用いて見ることができる。
年齢は数えればわかる。
それを考えれば、自分自身のことを全く知らないとまで言い切ることはできないけれど、そうかと言って、知っていたとしても、どうにもならないことでもあり、知らないも同じことになると思う。
自分自身の容姿をあらため、年齢を若くしろ、と言う意味ではない。
自分自身が劣っていると知っているなら、何故、その身を引かないのか、それを言いたいのである。
老いたことを理解したなら、何故閑居して、その身を安めないのかと言うことなのである。
目指す修行が十分でないとわかったならば、何故そのことを自分自身のこととして、反省をしないのか、と思うのである。
世間にあふれる厚顔無恥の面々が、すぐに連想される。
自分自身の拙さなどは何も知ることはなく、ただ他人の批判に走る。
他人を批判していれば、自分が偉いかと思っているのかもしれない。
程度の低い芸人、かつての有名歌手、スポーツ選手。
国と国の関係でも、似たような事例はある。




