第百三十三段 夜の御殿は東御枕なり
(原文)
夜の御殿は東御枕なり。
おほかた、東を枕として陽気を受くべき故に、孔子も東首し給へり。
寝殿のしつらひ、或は南枕、白河院は、北首に御寝なりけり。
「北を忌む事なり。又、伊勢は南なり。太神宮の御方を御後にせさせ給ふ事いかが」と、人申しけり。
ただし、太神宮の遥拝は巽に向はせ給ふ。
南にはあらず。
※夜の御殿:天皇の御寝所。清涼殿の昼の御座の北に位置する。
(舞夢訳)
夜の御殿は、東の方角に枕を置くのが習わしである。
それは、一般に、東の方角に枕を置いて、陽気を受けるのが好ましいというので、孔子も東の方角に頭を置いて寝たのである。
寝殿のしつらいは、あるいは南枕もあるけれど、白河院は北枕でおやすみになられた。
「北枕は不吉であります。そして伊勢が南となります。その大神宮に足を向けてお休みになるのは、いかがなものでしょうか」
と、ある人が申し上げた。
ただし、大神宮の遥拝においては、東南を向く。
南ではない。
白河院北枕説では、藤原氏の氏寺・氏社である南都奈良の興福寺・春日社を足蹴にする意図があったとされているけれど、とにかく南都興福寺、春日社の強訴に悩んでいた白河院とあれば、納得できる説である、
また人が伊勢神宮がある南に足を向けることは不吉と忠告申し上げたにも関わらず、正確には東南にあたると言い張り、枕の向きを変えなかった意地の張り方も、我がまま放題の白河院らしい。
ただ、その不吉という訴えは、当たってしまったようだ。
どんどん、公家の時代は衰え、源平の合戦を経て、約800年、武家の時代が続くことになった。
兼好氏は、白河院の考え方に近く、習わしである東南に向けば南ではないから、問題はないという説を取っているけれど、白河院以降の日本の歴史を考えて見ると、ある意味、貴重な忠告であったと思えて来る。




