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第百三十二段 鳥羽の作道は

(原文)

鳥羽の作道つくりみちは、鳥羽殿建てられて後の号にはあらず。

昔よりの名なり。

元良親王、元日の奏賀の声、甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作道まで聞えけるよし、李部王の記に侍るとかや。


(舞夢訳)

鳥羽の作道つくりみちは、鳥羽殿が建てられてから後の号ではない。

古来から、この名前である。

元良親王の元日の奏賀の発声が実に立派で、大極殿から鳥羽の作道まで聞こえて来たという記述が、李部王の日記にあるそうだ。


※鳥羽の作道つくりみち:平安京南端中央部。かつての羅城門から鳥羽に通じる大路。南に向かい、一直線に走る。新しく作られたので「作道」と言われたが、実は院政期以前からあった。

※鳥羽殿:洛南鳥羽にあった離宮。白河院が応徳三年(1086)に造営。壮観を誇るが、南北朝の内乱以後、衰退した。

※元良親王:陽成天皇の第一皇子。歌人、色好みとして知られ、天慶六年(943)没。

※李部王:「李部」は「式部省」の唐名。醍醐天皇第四皇子、式部卿重明親王。「李部王の記」は親王の日記。現存しているのは、わずかな部分だけで、本文に該当する記述は確認できない。



そもそも、ありえない記述である。

大極殿で、どれほど大声を出したからと言って、そんな遠くに届くはずがない。

兼好氏自身、そんなことはおかしいと思っていたのでないか。

言いたかったのは、昔から名前があった道ということ。

作道と名付けられ、新しいと思い込んでいる同時代の人々に間違いを指摘するのが目的なのだと思う。


そのように事実を無理解、無認識のため、誰かがいい加減に言い出したことが、後代にまで誤解が生じることは、多々ある。


源義経英雄説も、その一つ。

事実としては、兄にして源氏の棟梁頼朝の命令を無視した無謀な闘いを続け、那須与一を殺すなど合戦の決まりを破り、やがては安徳天皇を入水自殺まで追い込み、古来から受け継がれてきた三種の神器まで海に沈めてしまう。

自分が参加していない合戦の勝利まで、合戦したように京都の公家に言いふらす。

かくして、兄は激怒、関西武士の信頼も失い、流浪の身となる。


義経が英雄など、とんでもない。

平家物語の琵琶法師が、聴く人の受け狙いのため、悲劇の英雄話を「作って」しまったと言うのが、本当らしい。

そんなことを思い出してしまった。

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