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第百二十九段 顔回は、志、人に労を施さじ(1)

(原文)

顔回は、志、人に労を施さじとなり。

すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。

また、いとけなき子をすかし、おどし、言ひ恥づかしめて興ずる事あり。

おとなしき人は、まことならねば、事にもあらずと思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥づかしくあさましき思ひ、まことに切なるべし。

これを悩まして興ずる事、慈悲の心にあらず


(舞夢訳)

顔回は、他人に迷惑や苦労をかけないことを、信条としていたと言われている。

すべてにおいて、他人を苦しめ、傷つけることがあるけれど、たとえ身分の低い人々の意志としても、それを奪うことはするべきではない。

また、幼い子供を騙し、脅かし、恥ずかしい言葉を言って面白がる事がある。

十分な大人であれば、本気にはせず、たいしたことには思わないだろうけれど、幼い子供の気持ちとしては、その身にしみて怖ろしく、恥ずかしく、情けない気持ちが、本当に切実なものとなる。

こんな幼い子供などを悩まして面白がるような行為は、とても慈悲の心をあらわすような行為ではない。



※顔回:孔子第一の弟子。字は淵。「顔淵曰く、願はくは善に伐ることなく、労を施すことなけんと」(論語・公冶長第五)から。


確かに、どのような人であれ、他人に危害などの迷惑をかけるようなことは、考えるべきでもなく、もちろん実際に行うべきではない。

ただ、そのような考えや行動は、現代であっても尽きることはない。

兼好氏が次に述べた幼き子供へのことで思い出したのは、川崎で発生したカトリック系小学校の襲撃事件でのこと。

取材をしようとして、スクールバスに群がり、脚立まで使って車窓から児童を映そうとするマスコミのカメラマン。

悲惨な血まみれの学友を見て、ショック極まりない児童をさらに知らない大人たちのカメラが迫る。

そこには全く慈悲の心などはない。

あるのは「報道の自由、国民の知る権利の自由」をかさに着る、実は視聴率やら出版物の販売部数と儲けだけしか考えない「大人の理由」だけである。

報道の自由どころではなく、「ペンの無慈悲な悪魔」。

何より傷み震えた心のまま、無抵抗のまま知らない大人たちに、「勝手に無配慮に」写真を撮られ、怖くて下を向く児童たちの姿が、可哀そうでならない。

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