第百二十四段 是法法師は、浄土宗に恥ぢず
(原文)
是法法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ明暮念仏して、やすらかに世を過ぐす有様、いとあらまほし。
(舞夢訳)
是法法師は、浄土宗において誰にも引けを取らない学識を備えた人であったけれど、学識をひけらかさず、常に念仏をして、心を平安にして世を過ごす様子は、実に理想的である。
※是法法師:遁世歌人。生没年未詳。八十を超えるまでは健在だったようだ。兼好氏には大先輩に当たる人。
のがれても 同じ憂き世と 聞くものを いかなる山に 身を隠さまし
(新千載集)
この歌を知るだけでも、兼好氏の尊敬した理由がわかる。
どこの深山幽谷に逃れ修行を積んだしても、御仏から見れば、同じ憂き世と言われている。
そうであるならば、どんな山にその身を隠そうとするのか。
世間から逃れて深山幽谷で修行したところで、御仏にとっては、憂き世も深山幽谷も、差別はない。
憂き世のほうが、辛いこともあるのだから。
そもそも、阿弥陀の名を唱えれば、人は遍く、阿弥陀仏の意志により、救われてしまう。
その教えを気にとめず、ただ憂き世を軽蔑して深山幽谷に籠り修行だけの生活を送る、または仏道の知識をひけらかす、自慢したがるなどは、御仏から見れば全く滑稽なこと。
特に救いの条件に、修行絶対主義を唱える人には、耳の痛い歌と思う。
絶対お布施主義の僧侶は、今でもほとんどであるけれど、この歌の趣旨など、さっぱり理解できないのではないだろうか。




