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第百十五段 宿河原といふ所にて(2)

(原文)

いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここて対面し奉らば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきさしたち、いづかたをもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨に侍るべし」と言ひ定めて、二人河原へ出てあひて、心行くばかりに貫きあひて、共に死ににけり。

ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・漢字など言ひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て、闘諍をこととす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。


(舞夢訳)

いろおしは、

「これはこれは大変な思いをしてお尋ねになっていただきました。確かにそのような事はありました。ただし、この場所にて相対することになりますと、ここの道場を汚すことになるでしょう。ですから前の河原まで参りましてから、立ち会いましょう。そういう事情ですので、お立合いの方々、決してどちらへの加勢もなさらないように。多くの人がこのようなことに関わりになると、それは仏事の妨げになるのですから」と話をつけた。

その後、二人は河原に出て立ち合い、存分に闘い激しく刺し違いとなり、共に死んでしまった。

「ぼろぼろ」という者は、過去にはいなかったのであろうか。

近ごろになって、「ぼろんじ」・「梵字」・「漢字」などという者が、その起源を言われている。

世捨て人を名乗りながら、実は我がままや執着が強く、仏道を願いながらも、実は喧嘩をよくする。

自由勝手で気ままで、恥などは気にしない輩であるけれど、死ぬことなどは何も恐れず、この世に未練などないのは、潔さも感じたので、他人から聞いたままに、ここに書きつけたのである。


※あなかしこ:決して

※わきさし:付き添いの方々。

※みつぎ給ふな:加勢するな。



仇討ちをする人、される人の言葉使いが、ていねいな印象がある。

人込みを避けて、立ち合いに及ぶのも、落ちつきがある。

立ち合いの河原は、生の仇討ちの舞台なのか。

生きるのも自由、死ぬのも自由で、できるだけ他者には迷惑をかけない。

喧嘩や争いを戒める仏道の教えとは、かなり隔たっている部分もあるけれど、「生死の別」など投げ捨てている彼らには、気にすることではなかったのかもしれない。


それでも、念仏者同士の立ち合い、死ぬ間際に「南無阿弥陀仏」とでも、唱えたのだろうか。

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