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第百八段 寸陰惜しむ人なし(3)

(原文)

一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、やむ事を得ずして、多くの時を失ふ。

そのあまりの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月をわたりて、一生を送る、もっとも愚かなり。

謝霊雲は法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思ひを観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき。

しばらくもこれなき時は、死人におなじ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。


(舞夢訳)

人は、一日のなかで、飲食、用便、睡眠、会話、歩行などにより、やむなく多くの時間を消費してしまう。

そして残った時間などは、それほどではないのにも関わらず、無益のことをして、無益のことを言い、無益のことを考えて時間を使ってしまうだけではなくて、そのまま一日を消費し、月を過ごして、一生を送ってしまうのであるから、実に愚かなことなのである。

謝霊雲は、法華経の翻訳文を筆録したほどの優秀な人であったけれど、その心は常に立身出世の野望を抱いていたので、恵雲は白蓮社の仲間とはしなかった。

かりそめにも、一瞬という短い時間を惜しむ心が無いならば、死人と同じである。

時間を何のために惜しむかといえば、心の中の雑念を無くし、外には俗世間の事と交わりを断ち、悪を止めようとする人は止め、善を行おうとする人は行えというためなのである。



※謝霊雲:385-433。中国南北朝時代の文人。東晋の名門に生まれるが東晋滅亡後、宋に仕え出世を重ねた。しかし心に常に不満があり、それを紛らわせるように贅沢な遊びを行った。後年、謀反を疑われて斬殺された。山水詩の大成者として、少なからぬ作品が残る。

※法華の筆受:『法華経』の筆禄者。ただし謝霊雲は『涅槃経』の筆録はしたが『法華経』はしていない。兼好の思い違いのようだ。

※恵遠:334-146。中国南北朝時代の東晋の高僧。中国浄土教の創始者。

※白蓮社:恵遠が廬山東林寺で数百人と共に結成した念仏結社。仏堂の東西に池を作り、白蓮を植えたことにちなむ。



世事にかまけてあくせくし続ける人々、

とにかく立身出世を願い、欲望むき出しの人。

そんな、無益なことをして、無益なことを言って、無益なことを考えて、一生を送ってしまうのは愚の骨頂との意味なのだろうか。


確かに無常の世、色即是空、空即是色なのだから、結局は全て無に帰すのである。

そんな無に帰すことに、つまらぬ神経を使うべきではないのかもしれない。


ただ、心の中の雑念を消した人はいない。

俗世間とのつながりが、一生皆無などと言う人もいない。

悪事にやむなく走るのも人間。

善行をしきれないのも人間。


法然上人の考えは、煩悩を捨てきれないのが、人間の人間たる理由。

修行してしきれないのが人間。

法華経は素晴らしいけれど、普通の庶民では徹底は難しい、あくまでも世を捨てた仏道修行者が取り組むほどの難しい教え。


それだから、念仏を唱えるだけの簡単なことで、遍く救われる阿弥陀仏の教えを広めたのだと言う。

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