第九十三段 牛を売る者あり(2)
(原文)
また云はく、
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづかはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危ふく他の財をむさぼるには、志、満つる事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるが故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」
と言ふに、人いよいよ嘲る。
(舞夢訳)
また、その人が
「それだから、人は死を憎むならば、生きることを愛するべきなのである。生きていることの喜びを、日々に楽しまなくてどうするのか。愚かな人は、この楽しみを忘れて、空虚にも他の楽しみを求め、命という財を忘れ、際限なく他の財をむさぼるけれど、そんなことでは、本当の満足など得られない。生きている間に生きることを楽しまないで、いよいよ死ぬ時になって死を恐れるならば、それは道理にかなっていない。人がみな、生きることを楽しまないのは、死を恐れていないからだ。というよりは、死を恐れないのではなく、死が近いことを忘れているのだ。もし仮に、生とか死とかに執着がないのなら、それは悟りを開いたと言うべきだろう」
と言うと、周囲の人々は、ますます嘲り笑うのであった。
「人、死を憎まば、生を愛すべし」を懸命に説く人と、それを嘲る人。
確かに「死」などは、身辺に死を見た時とか、自分自身においては「死の危険」を感じない限り、意識はしない、つまり忘れているのが、ほとんどではないだろうか。
だから、「その人」が、いかに力説したところで、聞く人は実感がないので、嘲り笑うことになる。
「あほらしいな、面倒な理屈や」とでも思ったのだろうか。
ただ、周囲の嘲りはともかくとして、「人、死を憎まば、生を愛すべし」は実に名言と思う。
せっかくの命、与えられた命を大切に、生活を楽しみにせず、何の人生なのか。
何も楽しまずに死んだなら、どれほどの悔しさを持って、あの世に行くのだろうか。
自分の命に対しても当然、そして命を与えてくれた神とか仏、親とか先祖に、申し訳ないと思ってしまうのである。