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第七十二段 いやしげなるもの

(原文)

いやしげなるもの。

居たるあたりに調度の多き。

硯に筆の多き。

持仏堂に仏の多き。

前栽に石・草木の多き。

家の内に子・孫の多き。

人にあひて詞の多き。

願分に作善多く書きのせたる。

多くて見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵。


(舞夢訳)

下品と感じるもの。

座っている場所のまわりに、道具類があふれていること。

硯に筆が多くあること。

持仏堂に仏像が多いこと。

庭に石や草木が多いこと。

家の中に、子や孫が多いこと。

対面する相手の口数が多いこと。

神仏に祈る願文に、自らの善行を数多く書き連ねること。

多くても見苦しくないものは、文車にのせた書物と、塵塚にある塵になる。


※文車:書物の運搬に用いた車、屋形車状の大型にして豪勢なものから、厨子や書架に車をつけた家庭内で用いる小型のものがあったとのこと。図書館で司書が使うワゴンのようなものを想定する。



確かに、整理整頓されていない身のまわり、ペンケースにあふれる筆記用具など、逆に使いづらいのではと思う、

仏像だらけの持仏堂は、重苦しく暑苦しい感じ。

ゴチャマンと置かれるだけの御仏も可哀そうな気がする。

「これでもか!」というくらいに、石や草木を配置した庭などは、確かに下品な感じがする。多ければいいというものではない。

家の中に子供や孫があふれ、大騒ぎになっていることは、普通なら「幸せな風景」だけれど、遁世人の兼好氏には、度を過ぎるとやかましいということなのだと思う。

対面する人の口数が多いのも、同感。ヘキエキするし、頷くだけも、疲れてくる。

また、そういう口数の多い人に一言返すと、10倍になってかえってくる、それも面倒極まりないので、「はいはい」と聞き続けることになる。

神仏への願文に、自らの善行を数多く書き連ねるなども、下品の極みなのだと思う。

「私はコレコレシカジカの善行を、こんなに多くやりました、ですから、神仏様、ごほうびを多く、欲しいのです」

これでは、神仏に願いをかけるというよりは、御利益供与を要求、請求しているような感じになり、少なくとも神前であらたまった謙虚な心など、何も感じない。


そんな下品さに対して、文車の書籍や、塵塚(塵やゴミを捨てる場所)の塵の多さは、全く見苦しくないとするのも、多くても問題はないと考えたため。


兼好氏が「枕草子」の列挙を模して、書いたという研究者もいる段になるけれど、やはり自由闊達な清少納言とは、少々雰囲気が違い、少々の重たさを感じる。


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