不老の檻と世界の隙間
「――そうして私は完全に意識を失い、三日三晩、ただ悍ましい悪夢にうなされ続けた。悪魔の下へ自ら歩み寄っていく息子の背中を、何度も、何度も夢に見て……。あれは正に、この世の何よりも残酷な悪夢だった」
クレイグは、喉の奥から絞り出すようにして過去の語りを締めくくった。その顔は、百年以上の時を経てもなお磨り潰されることのない後悔と、引き裂かれるような痛みに歪んでいる。
しかし、その壮絶な告白を前にしても、サキルは感傷に流されることはなかった。彼は静かに片手を口元にやり、鋭い思考の刃を研ぎ澄ませ続ける。ただ、その切れ長の瞳には、隠しきれない驚愕の色が浮かんでいた。
「……まさか、タシュアが『不老』の領域に達していたとはな。いや、それだけじゃない。奴の口振りからすれば、条件さえ揃えば他者をも自在に不老へ変えられるということか……。奴一人が例外的に生き永らえている可能性は想定していたが、これは完全に計算外だ。おそらく、空間の彼方へ消えたフォーユも既に不老の肉体を得ているのだろう。そして、あんたもまた……」
「ああ。奴に無理やり流し込まれた『不老のレシピ』とやらは、呪わしいほど容易く私の定命としての寿命を消し去ってしまった。それから今日に至るまで、私は生き続けている。だが、髪が白くなろうとも、内肉の老いというものを一向に感じないのだ。奴の言う通り、いっそ自害して楽になりたいと思った夜は数知れんが……私には、遺していってしまった憂いがあまりにも多すぎる」
「それが――タシュアとフォーユ、あんたの息子、ということか」
「タシュアが定命の理から外れているのならば、最早一刻の猶予も、放置も許されない。それは、血を分けたクロンドル……いやフォーユも同様だ。その二人だけでも世界の調和を覆すには十分すぎる最悪だが、彼らは今、『再厄』という悍ましい集団の一員として組織的に動いている」
クレイグは同意を求めるように、濁った、しかし強い光を宿した瞳でサキルを見つめた。サキルもまた、事態の深刻さを骨身に染みて理解し、静かに深く頷きを返した。
互いが「敵の異常性」という同じ前提情報を共有していることを確認し、クレイグはさらに言葉を重ねる。
「私に与えられた、終わりのない、持て余すほどの時間。私はその全てを使い、奴らの所属する組織『再厄』についてそれなりに深く、執念深く調べ上げてきた。そして断言する。奴らを誰かが根絶やしにし、完全に始末しない限り、イフィラだけではない、ウィスレ七国への被害は際限なく広がり続けるだろう。このまま放置し続ければ、やがて彼らが世界の全てを意のままに掌握し、蹂躙するような、真の地獄が訪れる。悔しいが……それだけの絶対的な力を、奴らは既に有しているのだ」
「その『再厄』の構成員に関しては、どこまで掴んでいる?」
サキルはここで、明確な情報の擦り合わせを求めた。クレイグの切迫した言葉が、ただの恐怖心による誇張ではないと直感したからだ。
何より、『再厄』に関しては未だ世界中に謎に包まれている部分が少なくない。
この不老の当主が、どこまでその深淵に手を伸ばしているのかを確かめる必要があった。
「私が存在を網羅しているメンバーは、全部で七人だ。幻術を以て人を惑わすメレーシェル。他者の肉体や精神を縛る依術使いのミリーレテ。如何なる一撃をも無に帰す『絶対防御』のグレイス。悪魔の如き右腕を振るい、触れるもの全てを物理的に破壊する『魔修羅』ディアグ。気性が極めて残忍な殺戮者である『破滅者』バルア。そして、空間を超えてどこにでも現れる神出鬼没の転移者フォーユ……最後に、数百数千の人命を弄び全てを意のままに操る悪名高き『紫蝕の悪魔』タシュア・イーライグ」
クレイグは息を整え、さらに声を潜めて言葉を継いだ。
「加えて、どうしても名前が割れない者がもう二人いる。一人目は完全な感知不能、影も形も捉えることができないまま、裏で数多の大国の将を闇討ちし、国家の秩序を乱している暗殺者。二人目は、数多の城邑をたった一人で壊滅させ、始末した死体さえも悉く戦場から消し去っている正体不明の殺戮者だ。もっとも、これに関してはタシュアが周到に情報操作をしているのか、あるいはそいつ自身にそれほど異質な隠蔽能力があるのかは不明だがな」
クレイグが口にした情報の大部分は、サキルがこれまで命懸けで掴んできた組織の輪郭と似たり寄ったりであった。
ただ、彼よりも一歩深く踏み込んでいる部分もあれば、初耳の単語もある。
影も形もない暗殺者――それはおそらく、かつてこの身を以てその悍ましい能力を体感した「ミルズ」のことに違いない。
もう一人の、街を丸ごと消し去る殺戮者の存在も、噂程度には認知していた。
しかし――サキルの眉が、微かに跳ね上がる。
「他はともかく、バルアという名は初耳だな。『破滅者』という、呪われた二つ名だけは風の噂に聞いたことがあるが」
「……そうか。やはり外の世界でも、その二つ名だけが先行して知れ渡っているのだな」
「どういうことだ?」
「奴の気性は極めて残忍、かつ冷酷。一度奴に目をつけられれば、どんなに堅牢な要塞に籠ろうが、どんな英雄であろうが、この世から塵一つ残さず消えてなくなる。故に『破滅者』――そうした、生存者が誰もいないがゆえの恐怖の悪名だけが広がりすぎて、本名である『バルア』という名までは伝わっていないのだ。こいつもまた、タシュアと同等か、あるいはそれ以上の、底の知れない化け物だ」
「……そのバルアの具体的な能力は、あんたの調査でも明らかになっていないのか?」
「不明だ。そこも奴らによって、極めて緻密に情報統制されている。ただ、タシュアと同様に、複数の系統の多彩な術を使いこなすことだけは確かだ。単なる創術師の枠には収まらない、何か恐るべきカラクリがあるのは間違いないだろう」
「……そうか。詳細に突き詰めていけば、互いの保有している情報の細かな違いは浮き彫りになるだろうが、今は時間がない。ただ他にあんたが知っていて俺が知らない精査すべき重大な情報は、フォーユとタシュアの内情に関してだけだ。特にフォーユの《空間転移》に関しては、実の父親であるあんたなら、何か決定的な弱点や詳細な仕様を知っているんじゃないか?」
「いや、どうだろうか……。あの子が私の手から離れてから、あまりにも長すぎる年月が経ちすぎている。何より、我がフィローレの歴史において『空間転移』の力を発現した者は、あの子より前には一人として存在しなかった。それゆえ、あの転移がどれほどの距離を網羅できるのか、あるいは転移できる場所にどんな制約や条件があるのかは……私にも全く分からないのだ」
「そうか……ならば、残るはタシュア自身の――」
サキルがそう言葉を継ごうとした、まさにその刹那であった。
「――それ以上の情報漏洩は、我々が許さない」
背筋を凍らせるような、極寒の声音が遮った。
「何者だ!!」
鋭く叫んだのはサキルだった。
突如として、二人の前方わずか数メートル先の空間が、ガラスがひび割れるかのように不自然に歪み、捻じれた。そして、その歪みの中心から染み出すようにして、漆黒の装束に身を包んだ、異様な威圧感を放つ兵が姿を現したのだ。
クレイグは立ち上がり、周囲に展開していた自身が創った結界の気配を確かめ、戦慄に目を見開いた。
「バカな……! 如何にして、我が結界を、一切の予兆もなく破り、侵入した……!?」
「反逆者クレイグ・レイ・フィローレ――。貴様はイフィラを乱す害悪。我々が、今ここで始末する」
息を呑み驚愕するクレイグに対し、黒ずくめの兵は一切の感情を排した声で、淡々と、しかし絶対の決定事項としてその殺害目的を告げた。
闇夜の帳の中、抜かれた彼らの刃が殺意を宿して昏く光った。
***
黒ずくめの暗殺兵が地を蹴った。
その動きに迷いはなく、洗練された「殺しの型」そのものだった。イフィラが誇る、歴史の裏で王権を支えてきた特殊暗殺部隊。彼らは一対一の決闘ではなく、確実に標的の息の根を止めるための集団戦闘術に特化していた。
「クレイグ、後ろだ!」
サキルが叫び、腰の獲物を引き抜きながら前へ躍り出る。
だが、襲撃者たちの動きは異質だった。彼らが踏み込むたびに、周囲の大気が重油のようにねっとりと変質し、サキルたちの動きを狂わせる。
単なる物理的な突撃ではない。彼らの足並み、息遣い、そして放たれる創力の波長が完璧に同調し、空間そのものをすり潰すような独自の「歪み」を作り出していたのだ。
「小癪な真似を……ッ!」
クレイグが応戦すべく、フィローレの主流たる『空間の歪み』を発生させ、振動波を兵たちの足元へ叩き込む。交互に置換される空間が生み出す破滅的な衝撃。本来なら肉体ごと消し飛ばせるはずの一撃だった。
ガガギィィィン!!
しかし、黒ずくめの兵たちは、互いの影を重ね合わせるようにして瞬時に陣形を組み替えた。
互いに蹴撃を打ち込み合い、空中移動して安全な足場へと着地した。
「……!?」
驚愕するクレイグの隙を突き、二人の暗殺兵が影から滑り込むように肉薄する。一人が視界を遮るように漆黒の創力を爆ぜさせ、もう一人が無音でクレイグの喉元へと刃を突き出した。
サキルが割り込み、強引にその刃を弾き飛ばすものの、金属音が響くたびに、暗殺兵たちの連携はさらに鋭さを増していく。
個々の戦闘力はサキルやクレイグの敵ではない。しかし、呼吸一つ乱さぬ独特の連動と、フィローレの空間操作すらも予測して完璧に回避する能力。
百年以上の時を生きるクレイグと、修羅の場を潜り抜けてきたサキルをしても、ジリジリと防戦に追い込まれるほどの、不気味な完成度だった。
――その時、夜の帳が、絹豆腐のように容易く切り裂かれた。
「あはは。イフィラの猟犬どもが、僕の親友に何て無礼な真似をしているんだい?」
空間の裂け目から現れたのは、あの青紫の瞳だった。
「万死に値するよね。――いや、それじゃあ生温いかな」
タシュア・イーライグ。その名が空間に響いた瞬間、世界からすべての音が消え去った。
タシュアの姿がブレる。
「まずは三人やってっと」
次の瞬間、黒ずくめの兵の内三人が頭を抱えながら苦しみだした。
その隙に地面から土の杭が出て彼らを串刺しにする。
「これで連携はできない。終わりだね」
またタシュアの身体がブレる。
次の瞬間、残りの黒ずくめの兵を土の杭で突き刺した三人に向けて吹き飛ばされた。
そしてパシッ、と、世界が爆ぜるような乾いた音が響く。
ボッ、ボボッ。
土の杭から炎が発生して、彼らを包み込む。
大広間に転がったのは、人間の形すら残っていない、ただくすぶる黒い炭の塊だけ。
完璧なまでの瞬殺。理不尽なまでの絶対的な暴力が、そこにあった。
「タシュア……ッ!!」
クレイグの目が怒りに血走る。
サキルは激昂したい己の衝動を鉄の意志でねじ伏せ、無言のまま地を這うような速度でタシュアへと肉薄した。手にした刃が、タシュアの心臓を正確に貫く軌道を描く。
だがサキルの放った必殺の一撃は、タシュアの衣服に触れることさえできなかった。タシュアは一歩も動かず、ただ視線を僅かに動かしただけで、サキルの剣筋を先読みし、まるで初めからそこに刃などなかったかのように、すべての攻撃を軽々と、優雅にいなしてみせた。
タシュアはサキルと距離を取りながら、底意地悪く、愉しげに笑った。
「ははっ、いい動きだ。前の君だったら、怒りのままにただ僕を殴りつけようとしていたはずなのにね。僕の過去を聞いて、ただ闇雲に攻撃しても倒せないと理解したのかな? いやぁ、成長したねぇ。……そうは思わない? フォーユ」
タシュアが背後の空間を見つめると、そこが再び歪み、漆黒のゲートが開いた。
中から静かに歩み出てきたのは、冷徹な光を瞳に宿した青年――クロンドル、いや、フォーユだった。
「そうですね……。かつて地を這うだけだった虫が、少しは知恵をつけた。これは、楽しみと言うべきでしょう」
我が子の姿を目にした瞬間、クレイグの胸に血を吐くような痛みが走った。彼は剣を握る手を震わせながら、悲痛な声を絞り出す。
「クロンドル……! 戻ってくれ、頼む……! お前が私を憎むのは構わない。だが、その男だけは、タシュアだけは間違っているんだ! お前は利用されているだけなんだ!」
父親の、魂を切り裂くような説得。
しかし、フォーユの表情はぴくりとも動かなかった。彼は冷たい右目で実の父親を見つめ、淡々と、しかし決定的な拒絶を口にする。
「……あなたのやったことも、今なら理解できます。私が暴走せぬよう、血塗られた宿命から遠ざけようとした、親としての歪んだ『愛』だったのでしょう。――ただ、納得できるかどうかは別問題だ。私はもう、フィローレの檻には戻らない」
「クロンドル……っ!」
「既に『クロンドル』は死にました。今ここにいるのは『フォーユ』です」
二人のやり取りを他所に、タシュアは退屈そうに髪を弄りながら、サキルへと視線を戻した。
「さて、サキル。僕の過去から、何か面白いことでも見つけてくれたかい? 本当はね、僕の過去なんて他人にペラペラ話させたくはないんだけど……今回は特別に、クレイグに話させてあげたんだ。何か、君の中で面白い結論が出ているといいなぁ」
サキルは剣を構えたまま、鋭い眼差しで悪魔を見据える。
「あまり時間もない。一つ、問う」
「ん? なになに? 聞いてあげるよ」
「何故、わざわざクレイグを使って過去を話させようとした? 貴様の《死眼》の力があれば、俺の脳内に直接その記憶を転写して視せるだけで事足りたはずだ」
「そんなの、わかりきったことさ」
タシュアは子供のように無邪気に笑った。
「そっちの方が、君には『説得力』があるだろう? 本人の口から、後悔と共に語られる絶望。何より、その方が面白いじゃないか。ただ僕の力で記憶を視せて終わりなんて、スマートではあるけれど、物語としては最高につまらないよ」
「……やはりそういうことか」
人の人生を、感情を、どこまでも娯楽として消費する狂気ーー改めてそれを再認識しただけだ。
「タシュア様、お話中すみません、私は先に戻らせていただきます」
話はそこまでだ、と言わんばかりに、フォーユの姿が霧のように空間へと溶けて消えた。人質の確保か、あるいは次の標的への移動か。それを追う猶予はなかった。
タシュアはクレイグに向き直ると、その声を一段と低く、冷酷な響きへと変えた。
「さあ、クレイグ。これ以上ここで時間を潰すわけにはいかない。君の大事な家族……残された子供たちの命がどうなってもいいなら、ここで僕に刃を向け続けるといい。大人しくついてくるなら、フィローレの血筋の安寧だけは、僕が永遠に約束してあげるよ?」
「……くっ……!」
クレイグは、奥歯が砕けるほどに口内を噛み締めた。選択肢など、最初から与えられてはいなかった。彼は悲痛な面持ちで、最後にサキルへと視線を投げかける。
「頼む、サキル……! フォーユを、タシュアを……こいつを、そして『再厄』を止めてくれ……!」
「はは、こいつなんて酷いじゃないか。君と僕は、ずっと親友だろ?」
隣で笑う悪魔を完全に無視し、クレイグは必死に言葉を紡ぎ続けた。時間がなかった。これが、自分がサキルに遺せる最後の遺産だと確信していたからだ。
「奴らは、大国の戦争を煽りながら、全面戦争になりそうになれば直前でそれを止め、また別の場所で同じことを繰り返している。……推測にはなるが、あの『再厄』の不自然な動きの先には、何かしらの明確な目的があるはずだ。それを掴めれば、奴らの動きを先回りできる……!」
「へえ、さすがは僕の親友だね。と言いたいところだけど……そんなこと、誰でも気づくよね?」
タシュアの言う通りだった。その違和感には、サキルも既に気づいている。
ただ、クレイグの言葉はそれで終わらない。
「そして――奴らのその目的は、お前ではなく、さらに裏にいる『再厄』の黒幕に通じている」
クレイグのその一言が、大気をピりりと震わせた。
タシュアの青紫の瞳が、一瞬だけ、怪しく、そして深く輝く。
「へぇ……」
タシュアは肯定も、否定もしなかった。ただ、その沈黙と、瞳の奥に宿った底知れない光こそが、サキルにとっては十分すぎる解答だった。
もしクレイグの推測が正しければ。
タシュアやフォーユすらも動かす、その『黒幕』こそが全ての元凶。そして、サキルがその生涯をかけて追うべき、大いなる復讐の相手ということになる。
思考を激しく巡らせるサキルを、タシュアは興味深げに、そして冷たく見つめた。
「さて、そろそろ行こうか。これ以上ヒントをあげるわけにはいかない。後の楽しみがなくなっちゃうからね」
暗にサキルの仮説が「真実」であることを認めるような言動を残し、タシュアはクレイグの肩を掴み、背後の空間へと強引に引っ張り込んだ。
「くっ、頼むサキル! 必ず『再厄』を、あの悪夢を終わらせてくれ!」
「もう時間だよ。早く行こう」
「待て、タシュア!!」
ガギィィィン!!
サキルが神速の斬撃を放ち、空間ごと二人を切り裂こうとした。しかし、二人の手前に展開された、目に見えない透明の障壁に阻まれ、刃は甲高い金属音を立てて弾き返される。
「くっ……! 待ってろタシュア! 貴様は、貴様だけは、この俺が必ず殺してやる……!」
届かぬ刃の向こうで、悪魔は酷く美しく、残酷に嗤った。
「ふふ、楽しみにしているよ。サキル君――」
その言葉を最後に、タシュアとクレイグの姿は、完全に空間の狭間へと掻き消えた。
残されたのは、不気味に燃え残る暗殺兵たちの炭の塊と、夜風に揺れる焚き火の音、そして、深淵の先にある「黒幕」の存在を確信した、サキルの静かな殺意だけだった。




