異変①
「ようやく……ようやくナバ様のもとへ向かえる!」
サキルはラクス城の門を背に、腕を伸ばしながら喜びを噛み締めるように呟いた。
「うん。この時をどれほど待ちわびたことか」
その声に、ホーキフがのんびりとした調子で応じる。
「そうね……最後の戦もそうだったけど、ナバ様を見送った後のこの三日間も、妙に長く感じたわよね」
リセもまた同じ思いを口にした。ナバを見送って三日。戦いの傷もほぼ癒え、サキルたちはついに、敬愛する将のもとへ向かおうとしていた。その道程も、すでに五分の四を越えている。
「そうそう……って、まったく同感よ。私も早く会いたいわ。ねぇ?」
芝居がかった調子で現れたのはフェインだった。清楚な青と白を基調にした装いに大人びた艶を纏い、男口調と女口調を織り交ぜた彼女の語り口も、今や仲間にとっては馴染み深いものだった。
「フェイン、そんな口調でふざけてると、うっかり男言葉が出ちまうぞ? ここ数年ずっと男口調でやってきたんだからな」
「そうですよ、フェイン。お母様になるなら、見た目だけじゃなく中身ももっと女らしくならないと!」
「ちょっと待てリセ! いくら父様とフェインが結婚するって言っても、“お母様”って呼ぶのはさすがに抵抗あるよ!」
サキルが突っ込めば、リセが調子に乗って被せ、ホーキフがしっかり回収する。どこか漫才じみた掛け合いだったが、それもまた彼ららしかった。
「冗談よ。……でも、ナバ様のもとに行く前に、あらためてお礼を言いたかったの」
「……お礼? どういう意味?」
ホーキフが不思議そうに首をかしげる。だがサキルとリセは察していた。ホーキフも、きっとわかっていたはずだ。あまりにも当然すぎて、すぐには言葉が出なかったのだろう。
「今までありがとう、って意味よ。ここまで来られたのは、あなたたち三人のおかげ。もちろん、部隊のみんなの力があってこそだけど……サキル、リセ、ホーキフ。あなたたちがそれぞれの場面で力を尽くしてくれたから、あの最後の戦も勝つことができた。本当にありがとう」
そう語るフェインの表情は、いつになく穏やかだった。サキルたちは顔を見合わせ、どこか照れくさそうに微笑みを交わす。
「……感謝を言うのは、むしろ僕たちの方だよ。フェインがいなければ、戦うことすらできなかったかもしれない」
「そうそう! いつも冷静沈着で最善の手を打つ策士……ずっと憧れてたんだから!」
サキルの思いを、ホーキフとリセが代弁する。ならば、自分は一つだけ伝えようとサキルは言葉を継いだ。
「ふたりが言ってくれた通りだ。……それに、感謝するのはまだ早いよ。これからも僕たちは戦い続けなきゃいけない。二度と、大切な将や仲間たちを失わないために。だから、『これまで』じゃなくて、『これから』を考えよう」
それは、ナバにも伝えた想い。決して過去に満足してはいけない。未来をどう生きるかを、常に思い描かなければならない。
「……そうね。同じ過ちは、絶対に繰り返さない。今度こそ、何一つ見落とすことなく戦略を立てるわ」
数秒の沈黙は、皆を支えてくれた兄のような存在——リガイルを偲ぶものだった。そして、それを越えて生まれたのは、新たな決意。
「これから先、命を懸けてでも……ナバ様だけは、必ず守り抜く」
フェインが視線を前に向ける。遠くに、ラクス城がようやく姿を現していた。その横顔を見つめながら、サキルたち三人もそれぞれ力強く頷く。
——その裏で、何が起きているのかも知らぬままに。
オーラクスに到着したサキルたちは、城門前で立ち往生していた。
なぜなら——
「……おかしい。返事がない」
「出発したときは烽火で応答があったのに。こんな短時間で異変が起きたとは考えにくいわ。それに、もし何かあったなら、私たちが気づかないはずがない」
リセの言葉に、ホーキフが静かに頷く。
感知術で探っても、オーラクスに誰かがいる気配は確かに感じられる。だが城壁に向かって声を張り上げても、一向に応答はない。
「とにかく、フェインの報告を待とう。城壁の内側の様子が分かれば、状況は見えてくるはずだ」
サキルの言葉に二人も頷く。
フェインはかつて敵援軍を察知したように、今も土の塔を創り出し、城の内部を偵察している最中だ。あと数分もあれば、情報がもたらされるはずだった。
「そうね。ここで焦っても仕方ないわ」
「……うん、今は冷静でいることが一番大事だよね。……ねぇ、サキル。何か、感じ——」
「…………」
「……感じてないみたいだね、その様子じゃ。ごめん、フェインを待とうか」
ホーキフの言いかけた言葉の意図は明白だった。
戦場で幾度となく彼らを救ってきたサキルの「悪い予感」についてだ。
だがその感覚は今はない。
「……ああ、何も感じない。もっとも、あの感覚は嫌な未来ばかり見せてくるから好きじゃないけどね。感じないってことは、案外たいしたことじゃないのかもしれないな」
自分でも何故そう感じるのか分からない。ただ、そういう時は従うままに行動してきただけだった。
だからといって、今の状況が安心できるとは限らない。今は、ただ冷静でいることが肝要だった。
「……すまない、遅くなった」
ようやく、土の塔からフェインが降りてきた。
予想外の事態に備え、彼女は動きやすい男装に着替えている。黒の長ズボンに藍色の長袖——露出も少なく色気の欠片もない格好だが、どこか凛とした清楚さを漂わせているのは、彼女自身の魅力ゆえだろう。
「フェイン! どうだった?」
ホーキフが真っ先に問いかける。
フェインは険しい表情のまま、静かに口を開いた。
「……誰の姿もなかったわ。でも、オーラクスが襲撃された形跡もほとんど見られなかった。いいえ……何かがおかしいの。説明できない、違和感がある」
誰よりも状況を把握できる彼女でさえ、事態を掴みかねている。
サキルは小さく息を吐き、口を開いた。
「そうか。ならば、強引にでも城壁を越えて内部を確認するしかない、か」
「ええ。でも全員で行くのは危険ね。何かあったとき、すぐに動けないから。まずは私たち四人で偵察を行いましょう」
フェインの提案に三人は即座に頷く。
彼女は振り返り、傍らにいた三人の少年兵に声をかけた。
「レイグ、ロウ、ミル。ここは任せるわ」
「はい。お気をつけて」
感知部隊でもある少年兵たちは、きびきびと応じる。
彼らなら、異変があればすぐに知らせてくれるはずだ。
そしてフェインは再び城壁を見据え、短く声をかける。
「……行くわよ、三人とも」
その言葉には、焦燥を抑えた確かな緊張が宿っていた。
もちろん、誰一人として異を唱える者などいない。
「「「はい!」」」
リセ、ホーキフ、そしてサキルが声を揃えて返事をする。
その背中を、城壁の上から——紫の光をたたえた二つの瞳が、不気味に嗤いながら見つめていたことを、彼らはまだ知らなかった。
「ナバ様! 皆様! どこにいらっしゃるのですか!」
「ナバ様! ナバ様ぁぁぁ!」
フェインとサキルの必死の叫びに返ってくるのは、ただ不気味な静寂のみだった。
今、彼らはフェインの操る土の塔を使って城壁を越え、オーラクスの内部に侵入して捜索を進めていた。
「望楼にも物見櫓にも誰もいない……どうして……何が起きてるの?」
リセの疑問は、他の三人も同じように感じていたことだった。襲撃を受けたにしては街があまりに整然としており、遺体や痕跡すら見当たらない。後者はともかく、前者は到底隠しきれるものではない。
「……城へ向かいましょう。何か手がかりがあるはずです」
フェインの提案に異論はなく、一行は中央にそびえるオーラクス城を目指す。そこにはナバをはじめ、直下軍も駐屯しているはずだった。
もし彼らすら見当たらなければ、次の行動は本格的な捜索と報告になる。近隣の城邑へ早馬を送り、国の上層部に連絡を取らねばならないだろう。さらに敵の潜伏も想定し、三キロ四方にわたる徹底的な調査が求められる。
「ナバ様……どうかご無事でいてください」
サキルは心中で祈りながら、父のもとへ向かって歩を進めた。皆、その顔には静かな不安と焦燥が滲んでいる。
しばらく無言の時間が続いたが、やがて城が見えてきた時、その沈黙は一転して明るさを帯びた。
「あっ、城に人影が!」
ホーキフが声をあげ、指を差す。
「よかった……」
「まだ安心するには早いけど、最悪の事態は免れたようね」
リセとフェインが安堵の息をつく。不安に押し潰されそうな時、人は僅かな希望にも縋ってしまうものだ。
「……待て、ホーキフ、リセ、フェイン」
だがサキルだけは立ち止まり、声を低くして制した。安心したくないわけではない。ただ、あの「悪い予感」が再び首を擡げていたのだ。
「おかしい……街には誰もいなかったのに、なぜ城にだけ兵が? 何かがおかしい」
本能が警鐘を鳴らしていた。ただ「近づくな」ではなく、「城そのものに何かある」と——。
「……確かに、サキルの言う通りかもしれない。城に兵がいることは妙だし、私たちがここまで来たのに何の反応もないのも気にかかる」
フェインが沈黙の末、冷静に疑念を口にする。
「それは……」
「…………」
ホーキフもリセも反論できなかった。安堵が一転し、空気は不穏さを増していく。
サキルは判断を急いだ。
「……ホーキフ、城に斬撃を放ってくれ」
「「なっ!?」」
突飛な提案にリセとホーキフが目を見張る。一方でフェインは腕を組み、思索を巡らせていた。
「……確かに、あれは異常ね。あんな状況で手を振るなんてあり得ない。ただ、だからといって城を攻撃する理由にはならないんじゃない?」
冷静な指摘だった。サキルも反射的に本能に従ってしまった自分を省みる。
「……いや、僕も冷静になれてなかった。ごめん。フェインの疑問は尤もだけど、多分今回もサキルが正しい」
ホーキフが言葉を添える。共に戦場を駆けてきた彼にはサキルの感覚の正確さが理解できていた。
「私も、ホーキフと同意見よ」
リセも同様だった。
「……確証がない? どういうこと……」
フェインは訝しみながらもすぐに気づく。サキルの感覚を信じるべき時なのだと。
「そうだ。俺の本能が告げている。あの城に、何かあると。罠かどうかはわからないが、何かがある。頼む、ホーキフ。俺には遠距離攻撃はできないし、リセの矢は目立ちすぎる」
「……わかった、やるよ」
ホーキフは静かに頷き、剣を抜いて構えた。
「どうせ探るなら、サキルに任せるのが一番ね」
「うん、今までの実績があるし、信じてみよう」
リセとフェインも同意し、覚悟を決める。
時間はすでに惜しい。城の前での一手に、全員の命運が懸かっていた。
「シッ!」
鋭い呼気と共に、ホーキフの剣が空を斬り、水飛沫を伴った斬撃が空間を切り裂く。放たれた斬撃は水気を帯びた衝撃波となり、一直線にオーラクス城へと迫った。
そして——
「……!?」
誰もが壁が破壊されると疑わなかった、その直前。
斬撃は不可視の何かにぶつかり、空間が不自然に歪む。その瞬間、フェイン、リセ、ホーキフの三人は息を呑んだ。だが、サキルだけはほとんど驚かなかった。内心では、こうなることを半ば予感していたからだ。
しかし心中は波立っていた。父を呼びたい衝動に駆られ、今すぐにでも走り出したかった。だが、それを必死に押し殺していた。強く握りしめた拳からは血が滲み、噛み締めた唇にも赤が浮かんでいる。
だが今は、冷静に、最善の行動をとらなければならない。
「ホーキフ! 結界はまだ解けていない! 手を止めるな、続けて撃ち込め!」
数秒の沈黙の後、ホーキフはようやく我に返り、命令に従って再び剣を振るった。空間に残る歪みが、まだ結界が維持されている証だった。もはや言葉は不要だった。ホーキフにもそれが理解できていたからだ。
「くっ……あぁぁぁあっ!」
ホーキフは、重たい身体を無理やり動かすように、実戦ではあり得ない乱れた動きで斬撃を連発する。その絶叫のような声は、抑え切れぬ焦燥と不安をそのまま叩きつけているかのようだった。
そして次々に放たれる斬撃が歪みを拡大し、ついに——七発目の斬撃がそれを貫いた。
「なっ……!」
「何が……!?」
「なんで……」
「こんなことって……」
結界が破られ、覆い隠されていた光景が露わになった瞬間、四人は言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。
これまでにも数々の異変に直面してきたが、今、彼らの前に広がるそれは——最も衝撃的な光景だった。
「なんで……なんで……」
サキルは呆然と、うわごとのように呟いた。
「なんで……何もないんだよ……」
そこにあるべきオーラクス城は、影も形もなく、ただの更地が広がっていた。
サキルは膝をつき、その場に崩れ落ちた。