Ⅳ 二〇〇一年 秋(3)
指定された場所は、日本の一都市にある、文化会館だった。
セキュリティを誤魔化し、ユーリは夜中に――指定された時刻に、会館に忍び込んだ。さして大きな建物ではない。いくつかの会議室や休憩室、それに喫茶店が一つと、演劇等に使われる舞台設備と客席の入ったホールが一つ。それだけの建物だった。
舞台のあるホールと言っても、これもそこまでの規模ではない。舞台自体はその性質上それなり以上に大掛かりな建築物ではあるものの、客席の数はさほどでもなく、その場があくまで一地域の市民たちが慎ましく微笑ましく利用する場であることを物語っていた。
その場所を、ユーリは知っていた。それどころか、深く心に残っている場所だと言っても過言ではなかった。
そこは、ユーリやエリサが高校時代、部活の成果を発表するために何度も訪れた場所だった。地区大会のための舞台であり、夏が来るたびに照明の光を浴びて立ち、劇を演じた。
一、二階ぶち抜きの客席と、更にその上部に設置された証明調光室。
客席の数はさほどでもない――がしかし、それはプロの劇団が使うような大規模な舞台と比較してのことであって、単体の舞台としてみるのであれば、それなり以上だと表現することも出来る。アマチュアや――高校の演劇部にとってみれば。
黒い袖幕が垂れ下がるその間、舞台中央に、一人男が立っていた。客席を含め建物全体が消灯されている中で、しかし舞台上だけは明かりが点っていた。
ユーリが舞台に上がると、男は客席のほうを向いたままで声を発した。
「何もかもが暗い中でこうして舞台上だけが明るいと、特別な気分になるな。まるでこの場所だけが、既存の世界から切り離されて浮かんでしまっているような気になる」
響いた声は、聞く者の心に容易に滑り込む独特の質感を内包していた。低く、リズミカルで、心地よく耳を揺らす……。
「兄貴……」
ユーリは声を漏らした。照明の下に立つ男――どこか自分に似た、しかし決定的な部分で異なる男。
彼は振り返り、口の片側だけを吊り上げてユーリを見据えた。
「久しぶりだな、ユーリ」
親しげに。濁った色の一つも見せずに、ただ親愛だけが読み取れるような声音で、男が――悠里が、名を呼ぶ。その親しさが、ひどく気味が悪く、ユーリは顔をしかめた。
「怖い顔をしているな、ユーリ?」
「……親しい仲間の死体を見てきた。ソフィアという女性だ」
「それできちんとメッセージを受け取って、ここに来た。律儀だな、今も昔も」
表情を崩さずに応える兄に、ユーリは吐き捨てるように確認する。
「あんただったんだな……全部」
「何のことを言っている?」
とぼけた返答を行う悠里に、ユーリは踏み込み、およそ人間的ではない速度でその腕を伸ばした。相手の胴を掴み、投げ倒す。
既にユーリは、『見て』いた。相手の内部を――その意識の内訳を。
背中からまともに舞台に叩きつけられた悠里は、二、三度咳き込み、それから短く哄笑を上げた。
「こちらから見れば、同じ台詞を同じようにそちらに叩き付けたいところなんだがな」
言いながら、立ち上がる。強く背を打ち、すぐには動けないはずであったが、悠里はゆったりと何事もなかったかのように、その場に直立してみせた。
無数の争いが――悪意と敵意と狂乱を相手の身体に突き立たせ、返り血を浴びて吼える人の群が、そこにあった。誰の目に見えるわけでもない――しかしユーリには、これ以上なくはっきりと、生々しく見えるビジョンが。
拡張された意識が、悠里の意識を取り込み、その中身を――深く暗い水の溜まった、恐ろしい中身を覗いていた。
「……人々の意識や無意識を操ることは、実はそれほど難しいことではない。いつの世も背を押されたがっている人間は一定数存在するし、多くの人間は先導されることで安心する――それに、大衆は元々、破滅的な闘争に向かうきっかけを抱えてしまっている」
「あんたは、世界中で混乱を――闘争を引き起こし、無数の屍の山を築いた」
「あくまで引き起こしたのは当事者自身だ。その時期を操り、規模を拡大させたことは、認めるが。だがいずれ放っておいたところで、いつか起こったことだ」
「いつか起こった――この、今の世界の状況がか?」
「ああ」
悠里は目を細め、まぶしそうに上方を仰ぎ見た。人工的で白々しくありながら、しかしどこか郷愁を覚えるような色の照明の光が、彼の姿を真っ白に染めていた。
「言語のストレスだ」
「言語の、ストレス――」
「そうだ。覚えているだろう、ユーリ。昔話した、あれだ」
言って、悠里は視線をユーリに戻し、そして語り始めた。
全ての始まりについて――あるいは、とっくに始まっていた物事の内訳について。
「人間という意識にとって、この世は不可解だ。言うまでもなく」
言うまでもなく――人の個我は、一つ一つの自己意識は、動物の一個体として見れば高い知性を持ち、深く思考することの出来る。そんな人間の意識はしかし、世界の根本的な複雑さ、圧倒的な謎に、切実な謎に、十分に対応できない。
科学技術の発展はついに宇宙に人を送り、はるか太陽系の外に探査機を送り出すまでになったが――しかし人は狩りのために道具を使い火を使い始めたときからずっと、自身とは何であるかということの答えすら出せてはいない。自己を規定できず、この世を規定できず、幸不幸を規定できず――『存在の謎』のなかでもがいているに過ぎない。
そしてそうした状況は、端的にストレスとなって人々の中に溜まっていく……。
「歴史上起こった数々の陰惨な事件――虐殺、弾圧、死に物狂いの戦乱……それらは、このストレスによるものだと言ってもいい」
無論、ストレスのみが理由ではない。思想の相違、民衆の愚かさ、あるいは為政者の愚昧さ、単純な運の悪さ――しかし、そうした理由だけをもってして語るにはあまりに悲惨な出来事が、度々人類の身の上に起こってきた。
民族浄化などという正気の沙汰ではない行為が、果たして理性的に語られ得る理由によって起こされ得るのか。無数の人間をガス室に押し込み殺し尽くす行為を、「次世代の革新的な国家構造の創設のため」などというような理由で行えるものか。
理性的、論理的意識が行い得る行為から大きく逸脱しているとは、言えないか。
もしそうであるならば、それを可能ならしめるものとは、何なのか。
「それが、ストレスだと?」
ユーリの言葉に、悠里は頷いた。
「元々多くの人間の知性は、根本的にこの世の複雑さに対応できない。不条理さ、不合理さ、ストレスを抱え、苦痛を味わうこととなる。それでも一定以上の賢さを身に宿し、謎を受け入れつつもそれと折り合いをつけ、共存できる人間は、いる。歴史的に有名な宗教家などは、それを「悟り」という言葉で表現するかもしれない。一足飛びに真相を直感し直覚し、どうするべきかを知り、受け入れる。あるいは哲学者と呼ばれる者たち。それから、そうした特別な者に含まれず、しかし独力でこの世の不可解さと和合できる市井の人々。だがそうしたことは、誰にでも出来ることじゃない」
だから、時折、凄惨な争いが起こる。ストレスに耐え切れない人たちが、逃れ得ない不可解さを、人生の謎を、自己の謎を忘れ、一時の安心を得るために殺しあう。
進化の過程で手にした言語機能が、人を地獄へ導く……。
「ただの仮説だろう、そんなもの。個人的な推測に過ぎない」
「いいや、ユーリ。既に推測じゃない。お前も分かってるんだろう、もう。既にこれが、実証された話なんだと」
逃れ得ない。ユーリの拡張された意識は既に、感覚してしまっている。悠里の記憶、そこに映る無数の情景。確信されたもの――。
「七年前。紛争地帯に渡った俺は、いくつかの悲惨な争いを間近で見て、経験するうちに、あることに気がついた。人の自意識の確かさが、それを支える言語機能と共に、人をすり減らし、憤怒に導くという事実に気がついた」
ユーリは顔に手を当て、軽く頭を振った。まとわりつくような悠里の想念が、重く、絡み付いていた。
「お前は……何をしようとしているんだ、悠里」
言葉に、悠里は更に笑みを深くした。
「大衆は賢くないし、善について考えもしない……革命を、誰かを討つことでなそうとするならば、真の革命家は七十億人を相手に闘わなければならなくなる」
詠うように、諳んじる様に。どこかで聞いた覚えのある言葉を、彼は紡ぐ。
「ユーリ、俺は、まさしく七十億人を相手に闘争を始めようと考えたんだ」
*
宗教的思想においては――それも、割に原始的な信仰においては、人間自身を自然の一部、世界の一部として世界そのものとして「神秘」のうちにカテゴライスすることが珍しくない――むしろ、こうした考えはひどくポピュラーでスタンダードな認識だったとも言える。
仏教においては色即是空が語られ、荘子においては万物斉同が語られている。一部のアニミズムにおいては人間自身もまた驚嘆すべき自然の一部として信仰され、神道においては神と人の境が非常に曖昧に表現される。
「私」が「私」というはっきりとした個体であり個別意識である、といった認識の仕方に反する認識が、古くからいくつも人の社会には存在していたのだ。
「こうした思想は全て、狙ってか狙わずか、人を個我の檻から解き放ち、そのストレスを無化して人心を安定させていた。だが、自然科学が発展し、社会が情報網によって結ばれ共通化され、人口が増加する中で、それらあれこれの工夫、思想や信仰の影響力は部分的に弱まった。歴史の変遷の中での一時的な出来事か、あるいは人類の必然としての変化かは知らないが――ここのところの人類にとっての「自己」は拡散せずに収縮するばかりだった。近代的自我、個性の教育……色々と馬鹿馬鹿しい言葉が作られ、果たして人類のストレスは、限界を次々に超え始めた……それと同時に、悲劇の数と規模は、格段に膨れ上がった。魔女狩りで不当に殺された人間の何倍の人間が、ホロコーストで亡くなったと思う? 中世の戦争が利得を得るための小規模な戦闘であったのに対し、現在の戦争はどうだ? 利益を度外視した報復や聖戦に、どれだけの人間が死ぬ?」
「言語的自己規定が、闘争の、正体だって?」
馬鹿げていた。何もかもが。しかし実際に闘争は起こり続けていた。遥か過去から――歴史上のいくつもの点において……徐々に悲惨さを増しながら。
「全ての人間じゃない。全ての人間が、そうしたストレスに対応できないわけじゃない。世界の複雑さ、不可解さを受け入れることの出来る人間は少数だが、確かにいる」
「ならなんで、あんたは闘争を助長させたんだ」
「『受け入れることの出来る少数の人間』のためだ」
言い切る。迷いなく、揺らぎなく、悠里は語っていた。
「いいか、ユーリ……多くの人間は、言語を有することのストレスに耐え切れない。進化の過程で得た道具を使いこなせずに、狂乱するしかない。『自然淘汰』なんだよ……ストレスに耐えられる人間が生き残り、耐え切れない人間が消える。そうして、次代が形作られる」
「その担い手に、自分がなった気でいるのか、あんたは」
「だれでもいいさ――本当に、誰でもいい。だが、それに気がついたのが自分で、しかもそれを成すだけの手段を用意できるのも自分だけだった。だから、俺は始めたんだ」
そこまでだった。
ユーリは再び、兄に跳びかかっていた。破裂するような音をその場に残して相手へと肉薄する。
自己を脳外から操作し、各種の神経系を身体外を経由してイリーガルに反応させ、様々な肉体上の枷を外し、文字通り人間離れした動きでもって、襲い掛かる。
同時に、悠里の脳神経系に割り込み、全身を麻痺させる。ユーリにとって、ほとんどこれは、相手と自分の戦いというよりも、自分と一体化した相手、自分の一部分を自分で殺す作業に等しかった。
異能をフルに活用したユーリを、迎え撃つ術はない。自らの脳の檻の中に閉じこもる人間は、対抗する術を持たない。
空白があった。
一瞬後、仰向けに倒れこみ全身が分解されるような痛みに喘ぎながら――ユーリは愕然としていた。
「……どうして、俺が、世界中の混乱を後押しするなんてことが出来ると思う?」
照明の光――降り注ぐ強い光を背に受けて黒いシルエットと化した悠里が、呟く。
「自分だけが特別だとでも、思ったか? ユーリ」
何もかもが、すでに回答として示されていた。七年前、死んだことになった悠里が、紛争地帯で悲惨さを目の当たりにして、どうなったのか。
彼は悲劇を見て、触って、嗅いで――そうして恐らくは、そこで目覚めた。特異な能力に。自らの脳を操作し、言語機能を一時弱めることで自己を拡大化し、世界の一部を自己として自身を駆動させるという力を得た。
人間と言語、自己意識とストレスが争いを生む構造を見抜いた。ナビゲーターやユーリにも見つけられずに数々の混乱を後押しして誘発させ、ソフィアという手強いはずの相手を排除してみせた。全て、人の枠を越えた認識能力によって。
「お前とエリサは、本当に、似ているよ」
「会ったのか……? エリサに」
ユーリは逆光線に包まれた兄に、掠れた声を絞り出して訊いた。
「ああ。同じようなことを話して……それから、同じような反応をされた」
「彼女は、無事なのか」
「今は無事だ。殺しちゃいない――けど、これからは、どうだろうな」
「これから?」
「何もかも、今以上の混乱に飲み込まれる。無数の人類が焼かれることになる」
七十億人相手の闘争。『ストレス』に耐え切れない、愚かしい人々全てへの闘争。唯一の革命。
「……エリサには、臆病者だといわれたよ。七十億を相手取って犠牲を出すことを覚悟しておきながら、自分の親しい人間の前に現れて同調を求めるのか、ってな」
「エリサは……そういう、やつなんだ」
「そうだな。思えば彼女はずっと、俺より高潔だったかもしれない」
痛みがユーリをじわじわと侵食していた。意識がぼろぼろと砕け、苦痛に飲まれていく。
「悠里、待て、これ以上は止せ……人は、現今の人類のままでも、徐々に変えられるはずだ……ずっと耐えてきたんだ、何千年も、何万年も。今になって、放り出すな……」
必死で、意識をつなぎとめ、言葉を続ける。しかし、悠里は、かぶりを振って、ユーリに背を向けた。
「エリサも同じことを、言っていたよ」
足音が遠ざかり、消える。
暗転する視界に、どこか深い場所に飲み込まれる意識。底なしの倦怠感と、弛緩した全身の筋。
そんなものを感じながら、ユーリは最後に、何か声を聞いたような気がした。世界中の狂乱の中にある人々が、腕を振り上げ高らかに叫ぶ。唱和する。
――Let’s roll――と。
*
ユーリが再び目を覚ますよりも先に、気絶した彼が横たわる舞台はその土台すら碌に残さずこの世から消し飛んだ。
全世界で数十発の核ミサイルが射出され、各国主要都市の真ん中で破裂した。
いくつもの熱核球が世界中に現れ、地面を溶かしながら磨り潰し、恐ろしく広い範囲の町並みを薙ぎ倒し塵芥へと変えた。
二度にわたる世界大戦以後猛烈な勢いで爆発的に増加していた人口の二割近くが、第一波攻撃によって消失した。
更に数度にわたる攻撃で、半数近くにまで数を減らした人類は、その後更に闘争を続け、狂騒的な暴力の嵐の中で徐々に数を減らしていった。
衛星が落とされ、電路が断たれ、海に毒がまかれ、氷床にミサイルが打ち込まれた。
塵と化し、土と化し、言葉は枯れ、人類は再び混沌へと還りつつあった。




