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   Ⅳ 二〇〇一年 秋(2)

「エリサは、寂しがるよ」

 その日その時、ユーリは夏の暑く重たい空気の中、ベランダに足を放り出すようにして座っていた。彼の背後では、大きな荷物をまとめ終えた悠里が、さっぱりとした自室を見渡しながら、椅子に悠然と腰掛けていた。

 翌日には、悠里は飛行機で大陸へと向けて旅立つことになっていた。

「ちょっとした長期旅行に過ぎない。一時のことだろ?」

 悠里は弟に向けて親しげに声を返した。

「それでも、寂しがるさ。表にはあまり出さないけどね。エリサは」

「お前がどこかに連れて行ってやれよ、ユーリ」

 ユーリは、「ああ」とどこか上の空で返事をして、それから深く溜息をついた。ぬるい夜気が小さくかき回されて揺れる。

「……けどきっと、代わりにはならないよ」

 愚痴っぽく、そう付け加えてしまう。

「どうした、暗いな、おい」

 肩を揺らしておかしそうに悠里はユーリの背中に言葉を投げる。

「チャンスだと思えよ。お前、さっさと今より深い仲になりたいわけだろ? 彼女とさ」

「そりゃまあ……。――いや、なんで、兄貴が」

 んなこと知ってんだよ、と素早く振り返り、ユーリは思わず甲高い声を上げてしまう。

「見てりゃわかんだろ。自覚ないのかよ」

 目元を歪ませ、彼はにやにやと笑いながらユーリをからかうように見やっていた。

「お前と彼女は、ほんと、お似合いだよ」

「エリサは、そうは思ってないだろけど」

 半ばやけくそで、ユーリはそう返していた。普段ほとんど表に出さない、いじけた気分が肺の底辺りに溜まっていた。

「いや、お似合いだよ。これも、見てりゃ分かる。エリサは――俺より、お前に近い。どこか、本質的な部分で」

「なんだよ、それ」

「さあな。でも、俺にはわかる。何せ、実はこう見えて、俺は超能力者だから。ウルトラエスパーで、なんでもお見通しなんだ」

「ああそうかい、家族だけど知らなかったよ全く。オカルト特集のテレビにでも出てきなよ」

「そりゃ無理だ。あれだ。NSAだのKGBだのに雇われてて、守秘義務がだな……」

 ナンセンスな冗談を口にして、やや呆れ気味のユーリを置き去りに一人でひとしきり笑ってから、悠里は立ち上がった。肩をすくめてとぼけてみせ、それから彼はユーリの隣に腰を下ろした。

 しばらく黙ってベランダの向こう――夜の、何の変哲もない日本の住宅街を見るともなしに見て、悠里はそれからゆっくりと口を開いた。

「なあ、ユーリ。言語ってのは、一体いつ、どうやって、人類に備わったんだろうな?」

「……藪から棒に、いきなり何?」

「言語もまた進化の産物なら、ランダムな突然変異と、場当たり的な環境適応の結果ということになる。その発生に関してはいくつか難しい問題があるものの、遥か昔に人類は言葉を獲得し、それでもってして、現在に至るまで壮大な文化と文明を築き上げ、世界中に生息することとなった。このまま上手くいけば、宇宙にだって飛び出していくだろう」

 悠里はユーリの当惑を無視して、先を続けた。

「言語はもしかすれば、人間がここまで発展し進歩し、個体数を増やす、鍵となった。言語の存在によって情報を切り分け、分類整理し、推測と記録を覚え、記憶の外部化と共有を可能とした。ユーリ、ここまで高度な言語を、人間以外の地球上の生き物は、持ってないよな」

「……まあそりゃ、そうだろうね」

 一部の生き物は言語に類する機能を持つとされているし、人間によって相当な量の文字や記号を覚えこまされたサルも存在する。が、そのいずれも、人間と同等のレベルには程遠い。

「鳥も魚も、複雑な言語を持ってはいない。犬も猫も、虫も珊瑚も」

 低く良く通る声で、静かに踊るように言葉が連なっていく。

「彼らは言語を持たず……故に自己を自己と認識することもない。個体として生きながら、その個に宿る意識は個ではなく全一の意識として――あるいは全としての意識の虚無として――存在する……ユーリ、もし人が、言語を失ったら、世界をどう感じると思う?」

「もし人が、言語を失ったら……?」

 どこかつかみどころの無い問いに、ユーリは少しの間、絡みつかれ、考え、空想した。

 言語を失ったら。根本から言語を失ったとき、人が、どうなるのか――。

「そもそも、言語による認識能力がなくなるわけだから、自分自身が意識として存在しなくなる――死ぬようなものじゃないかな」

「だが動物は皆、明らかに生きていると人は感じる」

「それは……」

「こんな話がある。ある女性学者――たしか生理心理学だかの学者だ――が、ある日脳卒中で、自宅で倒れた。彼女は脳血管疾患について自身の仕事柄、詳しく知っていたから、自分の身に起きたことをすぐに理解して、救急車を呼ぼうと考えた。

 だが彼女は、通報する段になってひどく苦労することになった。電話機についたボタンの数字が、上手く理解できなかったんだ。彼女は脳卒中の劇的な症状の中で、言語機能に一時的に障害を負っていた。言葉の意味がひどく理解し辛くなり、電話の、「番号を組み合わせて特定の相手と通話する」という作業すら難しくなったんだ」

「それで、どうなったの?」

「結局は、助かった。ぎりぎりのところで何とか助けを呼ぶことに成功して、病院に運ばれた。一時はほとんど言葉をしゃべれず、理解も出来なくなったが、即座に治療がなされ、その後のリハビリとあわせて発症前に近いレベルにまで回復した。ところで、ユーリ、この女性学者が、救急車で搬送される間、言語機能が傷つき活動をひどく弱めていた間、何を感じていたか、分かるか?」

「なにをって、それは――恐怖とか」

 言語理解が消え、意味が曖昧としてくる時間。自己が消えていく時間。

 想像し、ユーリはそう答えた。だが、彼の兄は静かに首を振った。

「彼女は搬送される間のことを、後にテレビで語ってる。それによれば、彼女は、『ひどく大きなものと一体化するような、安心感や、心地よさを感じていた』らしい」

「安心感だって?」

「ああ。言語を失いかけ、自己を規定するものを失いかけた彼女は、自己像が溶け、より大きなものの中に混ざる感覚を、快感と共に味わっていたというんだ。面白い話だろう?」

 ふっと、何かを区切るように、悠里は息をついた。どこか、ひどくデリケートなものに触れるような、硬く冷えた顔を、彼はいつの間にか浮かべていた。

「人は言葉によって大いに発展した……だが、今も昔も世には悲劇が溢れ、汚濁が溢れ、苦痛が溢れ……文明が進歩する一方で人間本質的な問題は一向に解決していない。常に言語によって自己を規定する人間は、まさにその機能そのものによって、無視することの出来ないストレスに晒されていると、そうは言えないか」

「…………」

「言語は物事を分け、分けることで『分か』り、情報を効率的に整頓し伝播することを可能足らしめる。だが一方で、同時に、言語は『本来分かれていない物事』を分ける、とも言える。『世界』という一つの塊を、主観的認識によって無数の情報に切り分ける。分割する。

 まさにその機能こそが、人類を発展させたかもしれない。けれどそれと同時に、人は常に個我が個我として存在する苦痛を味わってきた。そうじゃないか?」

「個我が、個我として存在する苦痛……」

「そうだ。人間は、世界というものに対して、小さな個としての自意識では、全く対応できないところがある。世界の、宇宙全ての内包する謎や構造の複雑さに、自己意識というものは自己というものであり続ける限り、完全な理解を行うことは出来ない……存在とは何かという問いに、大抵の人間は疲弊し、混乱し、対抗できずに敗れる……」

 科学は存在の構造を解き明かす。だがそれが何であるかは、扱えない。howで解き明かすことが出来ても、whyには届かず、ましてやwhatには歯が立たない。

「自分の生に意味を求めつつも、明確で反論不可能な理由を手には出来ない。そもそも生きているということが、自分が存在するということが何であるのかを答えられない……苦痛は苦痛と『分か』らなければ苦痛ではないし、不幸は不幸と『分か』らなければ不幸ではない。あらゆる不幸の源泉は不幸を幸福と分けて認識するそこにあり、自分を自分として世界から切り離すことにある。さっきの女性学者はまさにこうした、自意識というもののストレスから開放され、巨大な世界そのものと一体化することで――つまり、言語を失いかけ、認識を、あらゆるものを『分ける』機能を失ったがために世界そのものとなることで、こうしたストレスから開放されたのではないか。ある種動物的な、全てが一体化した、わざわざ不幸を不幸として受け取らずともいい状態に、世界そのものとして、あらゆる謎であると同時に答えであるような状態に、なったのではないか」

 世界から切り離され、ちっぽけな自己意識という檻から、開放されたということだ……悠里は、ユーリへと染み込ませるように、語り続けていた。

「世に溢れる、凄まじい量の悲劇たち。俺は時々、それら悲劇の源泉が、この言語という機能によるものではないかと、思う時がある」

「人類社会の悲劇の歴史が、言語のせいだって?」

「言語が進化の産物だとしたら――場当たり的な環境適応の結果として現在まで残っている機能であるならば、それが人間を苦しめる枷となる可能性も十分にあるというわけだ。だから、俺は見てくるんだよ」

「見てくるって――何を」

「人類の行き着く先を。もし人間が言語によって生じる不完全さによってこれからも大いに苦しみ続け停滞を続けるならば、その行き着くべき先が、どこにあるのか。どこかにあるのか。それを、見てくる」

 ぽん、とユーリの背中を手の平で軽く叩き、悠里は元の柔らかな表情を顔に取り戻し、締めくくる。

「お前や、エリサのためにもな。二人が生きていく先は、もっとマシな世界であるべきだと、率直にそう思う。だから、今のうちに海外を見て回っておきたいんだ」

 再び悠里は立ち上がり、ユーリの肩に手をかけてベランダから身を引かせた。ガラス戸を閉じ、鍵をかける。これで話しは終わりだと態度で表し、しかし彼は、ユーリが部屋を出て行く直前に、その背に向かって呟いた。

「さっきの――お前とエリサがお似合いだって話。あながち、冗談ってわけでも、適当な言葉ってわけでも、ないんだ」

 お前らは、俺と違って――と言いさしてしかし、悠里は口ごもり、とうとうその先を聞くことなく、ユーリは兄の部屋を出ることとなった。


   *


 日本では季節が冬に移り変わり始め、木々が葉を落とし外気が肌を寒気でもって苛み始める頃、世界はすっかり殺戮と憎悪の坩堝と化していた。

 ユーリは世界中を飛び回り、多くの争いを未然に防ぎ、テロや虐殺の芽を摘んで回った。数多くの人間が彼の働きによってかろうじて悲惨な状況に巻き込まれずに済み――そして、そんな人々とは比べ物にならないほどに多くの人間たちが、ユーリの手をすり抜けて地獄に落とされた。

 ナビゲーターとソフィアの支援を受け、ユーリは国家に属さない個人の身でありつつ、信じ難い力を持っていた。ソフィアが選別し引き入れた人材と協力し、世界各地の争いに次々に介入できるほどに。

 だが、七十億の人類が一斉に拳を振り上げれば、その全てを止めて回ることなど出来ない。西でテロリストを押さえている間に、東で民族浄化が始まる――そんなことが続いた。

 世界は、エリサが望む願いとは逆の方向に、全力で走り続けていた。

 起こり続ける悲劇――一つ一つの混乱は、以前から世界中で散見されたようなものばかりだった。領土問題、人種差別、宗教対立。先の見えない社会への失意。貧困。

 だが、そこから引き起こされる現象の数と規模は、かつて無いほどに膨れ上がっていた。

 当然、ユーリはその理由を探った。ナビゲーターの驚異的な情報収集・処理・予測能力と、ユーリ自身の異能による分析の両者が組み合わさり、恐ろしいほどの計算がなされていった。

 だが――結果として、明確な理由を発見するには、至らなかった。ユーリも、それにどこの国家も、国連機関も、その理由を掴めはしなかった。

 ただ、ユーリは無数の争いを精査し、追い続ける内に、奇妙な何かに気がついた。

 明確な気づきではない。ただ、おぼろげな印象として、引っかかった。

 一見――どころか詳しく調べ続けようとも何の関連も無い複数の争いのその背後、恐ろしく深く暗いどこかに、何者かの意図のような、意志のような、一つの流れを感知していた。誰かの影――誰かの意志を。

 馬鹿げた思い違いだと、ユーリは最初そう感じた。世界の巨大な混乱の裏に暗躍する、一人の黒幕。分かりやすいといえばこれ以上分かりやすい話も無いが、しかし、常識的に言ってあり得ることではない。

 世界各地の、理由も経緯も異なる無数の戦争紛争テロに虐殺といった現象を、一人の人間が起こし得るというのは、実に空想的だからだ。

 結局、それ以上手がかりらしい手がかりを得ることなく、ユーリは『世界平和のための努力』に忙殺された。

 十一月に入る頃、ユーリはナビゲーターから協力の見返りに要求された謎の小型衛星の打ち上げを小国の協力の下に成功させ、それから久々に日本に帰国しようかとしていた。

 その帰国直前に、ナビゲーターからソフィアが殺されたという知らせを受けた。

「……それは、本当に? 間違いなく?」

 とユーリは眉をひそめて即座に聞き返した。

 ソフィアは、ナビゲーターの協力者であり、現地エージェントのようなものらしかった。ユーリは彼女の正体について、自身の力を使って調べられる範囲で調べていた。

 彼女はどこかの宇宙に本体を有する並列意識の一部が宿る、他宇宙からの「干渉者」であり、ナビゲーターと同等、「『ユーリ』が『エリサ』と結ばれること」を実現するために複数の宇宙に干渉している。彼女は多くの宇宙を観測することによって蓄えた膨大な量のデータに接続されており、どこか遠い、発展した宇宙の人類文明に支援を受けている。

 近似した宇宙のデータから、自分のいる宇宙の未来を予測し、凄まじい計算能によって物事を処理することに長ける。

 そんな彼女が、死んだ。殺された。

 考えがたい話だった。彼女は普通の人間ではない。軍隊であっても容易には勝利しがたい特別な存在だった。彼女自身の身体――各宇宙で物理的活動を行うための肉体――に何か予期せぬ致命的トラブルでも発生しない限り、そうそうあっさり死んだりするようなものではない。

 そうした違和感はしかし、すぐに萎れて乾き、枯れることとなった。

 世界各地に用意されたセーフハウスの一つで、ユーリは現実に彼女の死体を目にすることとなったのだ。

 ソフィアは、胸に数発の弾丸を受けて、倒れていた。さほど争ったような形跡も無く、タワーマンションの一室のリビングに横たわっていた。

 横たわった彼女のすぐ傍に、折りたたまれた白い紙が、落ちていた。

 ユーリはそれを拾い上げ、開き、息を止めた。

 瞼がかすかに震え、全身を巡る血液に冷たさが混ざった。それこそ足元の死者の掌のような冷たさが。

 紙自体は、単なるコピー用紙か何かに過ぎなかった。白い長方形の真ん中辺りに、日時と場所を表す情報と、それにメッセージが日本語で一行、黒インクによって記されていた。

 たった一行のメッセージ。それが、ユーリの体の隅々までを、寒々しい緊張と発火するような混乱で、侵していた。

 ユーリはそれを、小さく声に出して読み上げた。誰に聞かせるでもなく。


 『未来の話をしよう――ユーリ』


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