Ⅳ 二〇〇一年 秋
自身を意識的に「変異」させる術を覚えたユーリは、その力に習熟するため、何度も「自己の拡散」を試すこととなった。
その中で、彼は様々なものを見ることとなった。自己の脳領域を脳外へと広げ、生物非生物を問わず自らとして意識し――つまりは、世界と自分の『分かれ目』を再定義することで、ユーリの意識は当然大きく変容する。
処理要領の尋常ならざる拡張――そして、見るもの、香るもの、触るもの、聞くもの、味わうもの――何もかもの変化。
羽虫の群として紫外線を感知し、空間構造の一部として重力すら擬似的に「視覚」した。
そしてある時――それに気がついた。
ちらちらと、『現実』の光景に混ざって感覚される、奇妙な宇宙たちを。
思考に関わる処理を高速化し意識ベースを人間中心でありつつも無機物にすら同期させていたユーリはすぐに気がついた。それら宇宙たちは、幻覚でも妄想でも錯覚でもない。現実に存在する、時空構造の一部であると。
それと同時に、声が降ってきた。無数の宇宙の向こうから。
『君が君の願いを達しようと思うのならば、君がそのためにくぐらなければならない門はこの宇宙で最も狭く長いものとなる。向こう側からの光は見えず、誰も潜り抜けたことがない。誰もそれが、向こう側へと通じていることを認めたものはいない……』
笑うような囁くような声に、ユーリは瞬時に応じた。
「お前は――俺だ。回りくどいのは止してくれ」
その時ユーリは、一つ間違えれば二度と個我などというものに立ち返れなくなる瀬戸際にまで自己を拡大化し、おびただしい数の他宇宙を擬似的且つ簡略化してではあったものの、視覚していた。広大な空間そのものを自己脳領域としてエミュレーションし――つまり同時に、自己の脳をそれを取り囲む世界の一部としてエミュレーションし――ぎりぎりまで先鋭化させた知性でもって、声の主を突き止めた。
ほとんどこれは奇跡的な所業だったといっていい。
入り組んだ――現今の宇宙においてこれ異常に入り組んだ構造もないというほどに複雑化した――メタ的な時空構造のある一点に、彼は存在した。僅かな間、「彼」は押し黙り、それから苦笑するように声を零した。
『……なんだ、おい、台無しだな?』
「気持ちは分かるさ。根が臆病だから、尊大な態度やこけおどしが好きなんだ。見破られると、居心地がすこぶる悪くなる。違うか?」
『その通りだよ、ユーリ。なんとも自分のことがよく分かってるじゃないか?』
彼は――どこか別の宇宙の『ユーリ』は、けらけらと乾いた笑い声を上げていた。楽しむと言うよりは、諦念と虚無感を無理やり押しつぶして脇にどかしておくための笑い声だと、ユーリはそう感じていた。
ひとしきり発作的に笑った後で、彼は付け加えるようにして、確認した。
『それで? おまえもまた、想い人と、上手くいってないわけだ』
「余計なお世話だ」
『そうとも言えない』
押し付けがましさを装いつつも――彼の声には、何か透徹した芯のようなものが宿っていた。熱く、赤熱し、自身を内側から焼き焦がすような芯が。
『水葉ユーリ。俺は、ナビゲーターだ。お前たちを導く、先導者だ』
ユーリの「視界」の端々で、何かが明滅した。
淀みに落ちた未来都市を這い回り、次々に誰かを天上から地上へと突き落とす男の姿。無数の無残な骸に囲まれた穴倉でうずくまる少女を前に、己の信心が破壊されることに悲鳴を上げる男。真摯な激情と痛切な価値へ向かう意志によって光輝と共に喜びを味わい、そして銃を自身に向ける男――明滅し、そして、消えていく。
『まずはソフィアに会え、ユーリ――』
最初の啓示が降り注ぎ。
ユーリは、『ナビゲーター』と接続された。
*
始めに学校が爆破された。
複数の人種・国籍・宗教を身に宿す子供たちが通う学校であり、数多くの命が犠牲となった。
これに対し、それぞれの国・人種・宗教的派閥が、報復行為を取った。地下鉄が炎上し、ビルの窓が一挙に破壊されて降り注ぎ、公園で毒物が散布された。
こうした事件が、世界中で次々に起こり続けた。
犠牲に対する報復が行われ、その報復に対する報復が、更に広い範囲で頻発した。無数のレッテルに対してそれに倍するレッテルが製造され、それぞれのレッテルを背負う人々は互いにタグの違いを見て取ると即座に攻撃しあった。
それまで牧歌的な平和国家だと信じられてきたいくつかの国々ですら、昼日中の首都の大通りを、外国人在住者や自国の主だった宗教に属さない人間、特定の遺伝形質を持つ人間を排斥し吊るし上げ殺してしまえと大声を上げてデモ行進する集団を抱えることになった。
A国人としてB国人をこき下ろし、そのA国人の中で生まれが東か西か北か南かという違いによって互いを罵り、さらに細かな出身地域、通った学校、病歴や所属企業、好むスポーツの種類によってすら、互いの集団を劣り醜いものだと叩きあった。
軍事政権を打倒するために民衆が自殺行為とも言える一斉攻撃に乗り出し、死者の数を膨れ上がらせつつも民主化直前にまでこぎつけると、どこかの大国が軍事政権を支援し、またぞろ泥沼の闘争に逆戻りした。かと思えば支援を行った先進大国内部で、連続爆破テロが起こる。
企業は経済的覇権をかけて殺意に等しい意気をもってして市場を切り拓き続け、お互いに摩擦し衝突し、それが現実の戦争へと直結した。外国企業の店舗に石が投げ込まれ、それに憤怒した本国がガラスの弁償代を受け取る代わりとして焼夷弾をばら撒いた。
あの日――911同時多発テロ未遂事件以来、世界はその狂気を急速に加速させていた。ソビエト、ナチスドイツ、クメールルージュ、ボスニア内戦にコンゴ戦争……人類史そのものが時折顕在化させていた混沌と虐殺の遺伝的形質が、このときになって一挙に花開いたかのようだった。
*
銃口から弾丸が射出された。
ユーリは瞬時に脳を言語――非言語――言語と制御し切り替え、自己意識像を変形させた。
周囲の空間と一体化したユーリにとって、弾丸はさしたる脅威ではなかった。『見よう』と思えば、その金属塊があたりに空気を巻き込むように回転しながら直進してくる姿をじっくりと観察することすら出来る。空気の振動、質量の移動に伴う重力変化……何もかもが、ユーリにとっての「視覚」――無論、通常の視覚とは別物である――となっている。
ユーリのクオリアは、今や神経細胞からなる五感ではなかった。「拡大」状態の彼にあっては、五感という概念自体通用しない。
ともかく、彼は、身じろぎ一つで容易に弾丸をかわし、そのままずんずんと銃口へ向かって足を進めた。
銃の主――中年の男――は、たじろぎ、更に数発発砲したが、それでどうなるものでもなかった。ユーリは弾丸の下を潜り抜けるように体勢を低くして、男の下へ迫った。腕を振るい、男を地面に引き倒す。昏倒した男の手より零れ落ちた銃を手に取り、まったく狙いをつける素振りも見せずに周囲に乱射した。
撒き散らされた弾丸が、どうなったか。腕を振り回すようにしながら次々とトリガーを引いて撃ち出されただけの弾丸はしかし、ユーリに狙いを定めていた別の人間たちを正確に撃ち抜いた。
銃を捨て、ユーリは立ち上がり、息を吐きながら辺りの光景を目に映した。
「何だっていうんだ、一体」
ユーリは、愕然と呟いていた。
彼の眼下に見える町並みは、都市部であるが故に常に明かりに塗れ、夜であっても煌々としている。が、今彼が目にしている光景は、煌々と、どころの話ではなかった。
あちこちで火の手が上がり、ビルが崩れ、悲鳴がこだましている。炎の毒々しい色が辺りを染め、街灯や窓から洩れる蛍光灯の明かりなどでは到底実現出来ないであろう光を撒き散らしていた。
ユーリが立っているビルもまた、火の手を上げていた。今のところ傾いたりしていないものの、構造に致命的なダメージが入っていれば、遠くないうちに崩落するかもしれない。
端的にいって、非常に危険な場所だった。そんなビルの屋上、ヘリポートの上にユーリは複数の人間たちと共に留まっていた。
「我々としては、君の存在こそ謎なんだがな」
ユーリの正面に立つ、カジュアルなジャケットに身を包んだ男が低い声で言った。髪を残らず剃り落とした、三十ほどの男だ。
男の周囲には倒れ伏した数人の身体があった。年齢も性別もばらばらの、これと言って共通点のない人々だった。皆、ユーリの弾丸を受けて苦悶の中でもがいていた。
誰もが、さして特徴のない、一般市民のように見えた。特定の人種的特長もなにも、外見には存在していない。
にもかかわらず、彼らは、たった一時間足らずで町の各所を続けざまに爆破し、数百名を絶命させた犯行者たちだった。
ユーリにはそれが『分かって』いた。一棟のビルの頂上に集結し、煙を上げて軋み続ける都市の景色を眺める一団を察知し、急行し、男一人を残してなぎ倒したというわけだった。
「我々、とは、何だ。お前たちは、何か一定の目的を持った集団なのか」
ユーリが問うと、男は一瞬間の抜けた顔をした。口を半開きにして、目を見開く。子供のような表情。
それからすぐに、笑った。
「違う――いや、そうかもしれない。目的というべきか、理由というべきか」
「狙った場所に共通点はない――ただ、人が多い場所であるということを除けば。犠牲者には政治家も宗教家も人権運動家も含まれるが、これといった方向性が認められない」
「本当に君は――よく分からないな。まだ爆破したばかりだというのに、なぜそんなことを、さも知っているかのように言える?」
まさしく知っているからだ――とは、ユーリは答えなかった。変わりに、男の襟首を掴んで地面に引き倒した。
至近距離から男を観察しつつ、ユーリは拡大された知性や認識能力でもって、男を調べる。ほとんどその精神面ですら丸裸に出来るはずの力をもってして、意志や思考や記憶をスキャンする。相手を自己として、その脳を精査する。
出てきたものは、ただ、得体の知れない苛立ちのようなものだけだった。その苛立ちの気配――おどろおどろしい黒々とした気配に、ユーリは思わずたじろいだ。それ以上分解できない、漠とした感情の塊だけがあった。
「なぜ、爆破を行った……」
既に言葉よりもよほど信用できるものを――相手そのものとなって内心を知るという行為によって知ったはずのユーリはしかし、納得できずに再度問いかけた。あるいはそれは、自問であったかもしれなかった。
男は抵抗せず、けろりとした顔で答えた。
「むしゃくしゃしていたからだ」
「ふざけてるのか」
「いいや、全く。全くふざけてなどいない」
この上ない正気の色が――男の中に、見えた。はっきりと、赫々とした正気が。
また一つ、重々しい音が夜空を揺るがすように轟いた。どこかの建物が崩れ、粉塵が舞い上がり黒煙と混ざり合っていた。
「狂気的だ」
男から手を離して立ち上がり、ユーリはそう漏らした。
立て続けに、加速度的に頻度を高めつつ世界中で起こっている悲惨な事件――争い、戦争たち。
拡大化したユーリの意識を持ってしても、その理由は未だ、掴めていなかった。莫大な知性を得ることが出来るといっても、一時のことでしかなく、ひどく消耗してしまう。万能に程遠い力では、追いきれない何かが世界に芽生えていた。
「元々……」
足元で、声がした。倒されたままの男が、空を見上げながら、呟いていた。
「元々、人は多分に狂気的なところがある。誰もが正気を自称し自認するが、その実誰もが正気と狂気の滑らかなグラデーションの上のどこかにポイントされているに過ぎない」
「…………」
ユーリは足元の男を見下ろし、その声に聞き入った。
「誰もが幸福を求める。だが幸福の実相を言語化できる人間はいない。誰もが世界の真実を求める。だが万有の真相を言語化できるものはいない。人間は、全てを完全に知ることも、手にすることも出来ない。そもそも『存在している』ということがどういうことなのかという、最も根本的な問いには、全く歯が立たない」
万有の真相――そもそも、この世がなんであるのか。存在の謎。全ての謎の王――。
「そんな上で、しかしとりあえず生きているわけだからと、あれこれ様々な労苦を経験しつつ、人は生きる――とりあえず、何と無しに。なあ、これは全く、無茶苦茶な話だと思わないか」
「今目にしてるこの街の姿以上に無茶苦茶だとは、思えないが」
「それが無茶苦茶だと思うなら、十分だ。この光景は結果だ」
「何を言っている?」
「さあな。おれ自身にもよく分からないところが多い。だが――なあ、どうしたって、腹が立たないか? 俺たちは何だ? 人類や社会とは、時間や歴史や認識とは、何だ? 一つだってはっきり分かることがあるか?」
「待て、話がおかしくなってる。何の話なんだ」
「だから、言ったろう。むしゃくしゃしたんだ。犯行の理由だよ」
大きく足元が揺れた。薄く微笑んで、男は満足したように口を閉じた。
そうして、腕を背中に回す。すかさずユーリは男の胸を踏みつけた。くぐもった声を吐きながら体の力を失う男に手をかけて裏返すと、背中にごつごつとした感触があった。銃器が腰のベルトにさしてあるのを確認して、ユーリは嘆息する。
「何が起こっている?」
まるで世界中の狂騒のミニチュアのように、混沌に落とされた街を見渡し、自問しながら、ユーリはその場を後にした。




