Ⅲ 一七七一年 六月~九月(2)
八月二日
時に人は、ある種の絶対性とでも言えそうな何かに目覚め、囚われる。
あらゆる好みというものの本質は、個人を超えた絶対性にあるというのは、何通か前の手紙に書いたね。
食べ物の好み程度ならまだいい。だが、もっと大きなものの場合は?
世の中には、例えば満足に暮らし、食べ、家族を作り穏やかに生きることを捨て、空腹と乾きに喘ぎ、手にすることが出来たはずの幸福をまとめて火にくべて、ただ一つの仕事や仕事にすらならない何かに没頭するものがいる。君にも分かるだろう、例えば画家や音楽家で、生きている間にちっとも評価されず、他にいくらでも暮らしようはあっただろうに、求めるただ一つのものの中に生き、貧しく孤独に死んでいったような人々だ。
世間はよく彼らの人生に疑問を持つけれど、今の僕には分かる。あまりにも自明なことだ。
彼らは、そうせざるを得なかった。自身の、ちっぽけな個人的意志なんてものは、関係が無かった。
僕らが、どうしてか好きなものは好きであるというように、彼らは絵を描くしか、楽器を奏でるしか、なかったのだ。生まれた限り死ぬまで生きる以外に道がないことは、君も同意するだろう? それと同じように、「そうせざるを得ない」絶対性というものが、この世にはある。
そうしたものに囚われた人は、全ての価値がその絶対性に収斂する。なにもかも、すべからく価値の行き着くところであり、また、始まるところとなる。
景色の美しさも音楽の心を揺さぶることも、皆、そのなにがしかの「絶対性」たるものがあればこそ生じ、感じることが出来る。
ただ、それがあればいい。
この一言は、こう言い換えることが出来る。
それが無ければ、全て無価値である。
僕は今日もロッテに会う。アルベルトはずいぶん前に出先から戻り、毎日を彼女と過ごしている。
僕は毎日色々な意味でぞっとしている。君に知っておいて欲しい、ソフィア。
僕の絶対性を。
八月十日
ペンを取り落とし、床に転がる音を聞いただけで、何もかもが枯れて死んでいくような心地がする。拾い上げるために、死にそうなほどの精神的努力が必要になる。
「それで、なんになる?」と誰かが囁く。何になるわけもないのだ、分かりきっている。
九月八日
知らぬ場所を歩き、知らぬ景色を目に映している。しかし僕の目は常にロッテの姿を無理にでもその景色に入れ込もうとする。なんということのない草地の端に、石畳の道のほとりに、道沿いに出来た水溜りのすぐ傍に。
束の間その幻を目と心に留めるその何秒かだけが、僕にとっては心地のいい、まともに生きている時間だ。ロッテに出会うまでに僕は一体どうして、いろいろなことにそれなりの幸福を感じ、それなりの不幸を感じていられたのだろう。その感覚というものを思い出してみたいが、不可思議なことに、一向に思い返すことが出来ない。
変質してしまった。何もかも。
九月十二日
「好きだ」というのは「死ね」というのと大体同じくらいの言葉だといっていい。それは覚悟に対して相応の姿勢を取ることを求める言葉だ。後戻りの効かない、凶悪な言葉だ。人間関係を人間関係足らしめるために必要な良識――互いの間に設けるべき距離、必要十分な無関心、自己を破滅させないというラインを守った優しさ――を完膚なきまでに崩す言葉だ。
自身にとって相手が絶対的価値であるということは、全価値がその相手によって価値足り得、それなくば全ては無為であるということだ。大げさな話でもなんでもない。むしろこれは冷静極まりない論理の話だ。Aを前提としなければ他の全てが成り立たないとき、A無き世界で、BやCやDに一体何の意味がある?
友人関係のような、人間的理性的関係と混同してはいけない。相手を絶対的に好むということは――好まざるを得ないということであり、その意志を受け止める結果を、生涯を通じて得ようと考え続けるだろうということだ。
私はあなたを好む。絶対的に、永続的に。拒まれれば、後には空虚だけが残る。
これが、「好きだ」と告げることの本質だ。ほとんど脅迫だといってもいい。相手に自分の心臓を握らせて、いらないなら捨ててくれ、それが無ければ無論僕は生きていけないけれど、と言うようなものだ。生半な覚悟では言ってはいけないし、言われてはいけない。
君はこの間の手紙で僕に、想いを告げてみてはどうかと提案したね。
婚約者のいる――いや、今はもう夫婦だ……僕は未だにこの事実が良く飲み込めてはいない。夫婦だって? そうか、結構。夫婦だって……?――人に愛を告げることの不道徳は置いておくとしても、だから君、そうそう簡単に出来ることではないのだ、それは。
ロッテは愚鈍な人間ではない、決して。僕の考えと彼女の考え、僕の感じ方と彼女の感じ方はぴったりと鏡のあちらとこちらのように同じ動きをする。恋愛というものの恐ろしさについてだって、彼女は知っているのだ。
「僕の全人生と命を、あなたが握ってしまっているのだ」などと、どうして言えよう?
九月二十一日
まず最初に、君に頼まれていたことについては、無事にやりおおせたと思う。
手紙にあったとおりに開封し、広げ、動かしてやったよ。勿論、誰の目にもつかない山奥でね。
しかし君――あれは一体、なんだい? 金属の塊、くしゃくしゃによじれた銀食器の山のようにしか僕には見えなかったが、あれは――あれは、ひとりでに動き出し、浮かび上がり、ものすごい勢いで天を目指した――。あんなものは見たことがない。想像したこともない。
君は時々人の全く知らないような知識をもっていたりして、僕にとってはそんなところもユニークで好ましかったのだけれど、今回のこれには度肝を抜かれた。僕のここのところの精神状態を心配して驚かせてショック療法をかけようという心算だったというなら、それなり以上に効果はあったといえるかもしれない。
「群体観測ドローン」と君は手紙に書いたがそれが一体どういう意味なのか、全くの謎だ。
観測ということは、何かを見ているのかい? どこか、天高くから。
ロッテや――そしてアルベルトのことさえ。
九月二十八日
以前アルベルトと自殺というものについての話をしたそのことを、手紙に書いたね。あれ以後僕はよりそうした人間の様々な選択に関して考えることが増えた。
以前にアルベルトに話したように、僕ら人間には、限界というものが存在する。人は重度の熱病なんかにかかってしまえば、どれほど普段頑強で健康な人間であれ、やせ細り喉を枯らし、節々を腫らして死んでしまったりする。病気に弱い人間も強い人間もいるが、何万人も殺すような恐ろしい病には誰も勝てっこない。
首に刃物を深く入れれば、誰だって死んでしまう。それを見て、「あいつはなんて弱いのだろう、きちんと食事して失った血が回復するまで待てば、元通りになっただろうに」なんて馬鹿な事を言う奴はいない。
けれど、自殺に関して人の目は冷ややかだ。これ異常なく追い詰められ、この世の希望も価値も一切合財剥ぎ取られ、奈落に落とされ悲鳴を上げるしかないような辛苦の中に浸っている人が身を投げたとき、人は何と言って品評する?
弱い人間だ、一時の悲しみを抑え、世に溢れるさまざまな価値に目を向け、前を向いて再び生きることの出来るようになるまで待てば良かっただろうに――こんなところか。
僕はよくよく思う。自殺に関して、まるで動物的な反射行為のように「馬鹿なことを」と呟かずにはいられない心象、ああいったものほど、愚かで、汚らしいものも少ないんじゃないかとね。
確かに世には、馬鹿げた自殺も多くあるさ。大した問題でもないことにくよくよと悩んで、ろくに考えもせずに回りに散々迷惑をかけて構ってもらった挙句、えいやと手首を切るような手合いがね。
けれど、それが全てだと考えるような人間は、一体どうして例外というものの可能性を考えないのだろうか。
先の、病気の例えで言うならば、馬鹿な自殺を行う人というのは、ちっとも身体を鍛えず、栄養も睡眠もとらず、そのせいでさして重くもない病で死ぬような人に例えることが出来る。人々はそうして死んだ人に対し、「馬鹿なことを」というだろう。
これは全く、その通りだ。常識的な生活をしていれば死なずにすんだのだから。
このように、大衆というのは、肉体的物理的なことに関しては、「馬鹿なこと」と「仕方のないこと」を見分ける。なのにどうして、精神的非物理的なことになると、すべからく自殺というものが、「馬鹿なこと」になるのだろうか? これこそ「馬鹿なこと」だと思わないだろうか。
九月二十九日
死というものは、あってないもののことだ。僕らは決してそれを規定できない。
僕は罰当たりな無神論者ではないし、天国や地獄があってもいいとは思っているけれど、しかし、どうだろう、ソフィア。天国や地獄や何がしかが死後にあったとして、僕らがそこで悦楽や享楽やあるいや辛酸や苦痛というものを感じるとしたら、それは生きていることとどう違うというんだ?
死後に安楽を求める考えは、どうにも無理がある。死後に我々が今のような認識主体として存続し続けるなら、そこには新たな幸福と不幸があるだけだ。今と変わらない。いいや、天国は理想郷で、この世の問題全てが取り払われとても心地いいのだと主張する人もいるかもしれないが、この世にはそれこそ天国のような生活を実現させながら幸せになれない人間が多くいる。幸不幸というものは単純な条件でどうこうできるものではない一つのものだ――対立した似物は同一のものだといえる!――。どちらかが完全に取り除かれたような場合、最早そこに僕らが知る意味でも幸福も不幸もない。完全な幸福としての天国があるなら、そこに生きる魂は人間とは全く別物となるだろう。
またあるいは、死後我々は全くの無になるのだというものもいる。僕はそういう主張を聞くたび、笑い転げそうな錯誤にどうして気づかないのかと言ってやりたくなる。
だってそうだろう、どうして無になれるんだい。なれるような何がしかがあったら、それは無じゃないじゃないか。
この世の不幸から開放されたと認識する自己が無ければ意味が無いだろうに、それが無化するようなことに、どうして希望をかけられる?
そもそも僕ら人間は、こうして認識し、様々な意味の狭間で存在することを『生きる』といい、そうではなくなることを――生ではないもののことを、『死』と呼ぶんじゃなかったっけ?
だとすれば、死なんてものは、存在しないことによってしか存在しない。ある意味で、死はないんだ。意識主体としての僕らが無くなれば、生も死もないんだし、逆に存在しているなら、それはもうすなわち生なんだからね。
僕は先日、自殺について書いた。僕は自殺の一部を――どうしようもないものに関して、認めると書いた。認めざるを得ないと。
けどそれは、死に希望を持つなんて話を認めるからじゃない。そうした希望による自殺は、『馬鹿なことを』と言われて仕方のないケースだ。
九月三十日
たった一つ――たった一つの絶対性がこの手にあれば、それでいいのだ。この魂と肉体の全てを捧げつくし食い尽くされようが、それでいい。
だがその一つが無ければ、どのような幸福が黄金の雨となってこの身に降りかかろうとも、僕は何も感じることは無いだろう。今朝の朝日も昨日の夕日も美しかったが、最早僕には何の意味も無い。かすかな寂しさと悲しみがあるだけだ。
たった一つ。
絶対性というものを見つけながら、僕はどうしてそれを手にしていないのか、たまに頭が混乱する。それ一つあれば全てが価値となり、そうでなければこの世が地獄となる、そんな魂に生まれついたというのに、その一つが与えられないのだ。
アルベルトは手にした。彼にとってこの世は何があろうとロッテと共にある限り天国だ。
僕はなぜ手にしていない。答えられるか? ソフィア。




