Ⅱ セントラ暦二百九十三年 白梯子の月 (3)
傷を癒す術は少ない。体組織を修復する秘術はほとんど扱える者のいない専門性の高いもので、それ故にユルゲンは自分の傷口をもっと簡単な術で塞いだ。熱を集めて、血が止まるまで焼いた。
教会騎士は一掃され、戦闘は終焉を迎えていた。非戦闘員が半数以下にまで減った混沌騎士団の元へと合流する。別働隊の教会騎士に襲われたらしく、混沌の娘たちを含む数名に被害が出ていた。
「ユルゲン!」
エリーズが、剣を支えになんとか立っているユルゲンへと、悲鳴を上げながら駆け寄った。
「エリ……よく、無事で」
幽鬼のような顔にそれでも無理やり笑みを形作り、ユルゲンは彼女に応えた。
「ユルゲンこそ! でも、これは……ユルゲン、しっかり、肩を貸します」
断ろうとするが、逆らえず、ユルゲンは彼女の助けを借りて、息をつく。
と、ランヴィエの騎士の一人――一際上等な鎧に身を包み、腰には最新式の短銃まで下げた中年の男が、ユルゲンの傍で馬を降りた。
「周囲の教会騎士は残らず片付けたようだ……これでしばらくは誰もここにはこない」
「……感謝します、ランヴィエの――」
「アンコンシャス隊グレインだ……無理にしゃべらなくとも、良い」
片手を上げて、彼はユルゲンの言葉を制した。それから辺りを見回し、ウェルニクの死体に目を留める。しゃがみこみ、その手からドラゴンスレイヤーを取り上げた。
「混沌殺しの秩序結晶剣。手練だな」
周囲では、混沌騎士たちが仲間の死に対する嘆きと、生き延びて救いに拾われたことへの歓声の声を上げていた。ランヴィエの騎士は数が多く、非戦闘員を含めたシルヴィウスの民全てよりも多く見えた。
「私からも、感謝をささげます。あなた方は、腐敗した教会を退け我々を救ってくださった、恩人です」
エリーズが、やや固い口調で礼を述べた。
グレインはそれに対し、細めた目を彼女に向け、しばし迷うようにじっと見つめた。その後で、「いや、とんでもない」と小さく呟く。
「我々の到着がここまで遅くなったばかりに、始まりの血に連なる王女殿下をこのような過酷な窮状においてしまった」
「気になさらないで下さい」
「気にはします。今までもそうだったし、これからのことも、全て含めて」
嘆息し、無造作に彼はドラゴンスレイヤーを握ったままの腕を突き出し、踏み込んだ。
「あなたが死んでいようといまいと、どちらでも良かった。ただ、死が明確に確認できるのは、喜ばしいことです。エリーズ皇太子殿下」
切っ先は、正確に胸の中央を――竜核を、貫いていた。
ぞっとするような空白の後で、取り返しのつかない黒い叫びと共に、ユルゲンはグレインへと腕を伸ばした。
グレインはドラゴンスレイヤーを離し、懐から短刀を取り出すと、ユルゲンの胸に二度三度と刺した。嫌々日曜大工でも行っているかのようなぞんざいな動作で、致命的な傷を複数の臓器につけて、最後の一撃を加えた後はそのままユルゲンの身体に刃を残したままで手を離した。
「なぜ、です」
エリーズが口の端から鮮やかな色の血を漏らしながら、問いかけた。
「我々は、正当後継者であるはずのあなたを策謀から引き摺り下ろし、不当に処分しようとしたアナンダミドの不正を糾弾しております」
慇懃無礼、というわけでもなく、ただただ何の不自然さも感じさせない丁寧さで、グレインは彼女に答えた。
「正当後継者を奪還する……これを、自国民と、やがて自国民として併合すべきアナンダミドの民に見せ付ける」
「ならば、なぜ、こんなことを」
「ランヴィエの民は、未だあなたが混沌の力を持つことを知りません。アナンダミドの民にしても、半信半疑でしょう。我々が彼らを統治することになれば、彼らの中の真実を入れ替えることは容易い」
「一体、何を……?」
エリーズは、肩を貸していたはずのユルゲンに腕を絡ませながら、その場にしゃがみこむ。それに引きずられる形でユルゲンもまた、崩れ落ちる。
「我々に必要なのは、自らの正当性を見せ付けることと、敵であるアナンダミドや教会がいかに汚いか、不正であるかを見せ付けることです。そのためにはあなたは我々の助けがすんでのところで届かず、『教会の手によって』殺されてしまうほうが都合が良い」
倒れ横になるエリーズの身体を、ユルゲンは腕に抱き、こぼれていく彼女の体温を全身で感じていた。足元の土に彼女の血が落ち、染み込み滲んでいく光景が、この世で最も寒々しい光景なのだと知る。
「あなたは、混沌の力など『もっていなかった』。ただの正統な王女だった。それを、教会は『不当にも』謀殺した。我々は必死でそれを阻止しようとするが、『悲劇的なことに』王女は殺されてしまった……『何の非もない』王女が殺されるほうが、話としては悲しみやすい話になる。分かりやすい悲劇は、民を憤怒させ、そして慰めによって従順にします」
「最初から、貴様らは、何もかも――!」
ユルゲンの声に、グレインは苦笑を浮かべてみせた。
「王女を実際に国にまで連れて帰れば、せっかくの出来のいい悲劇が、薄まることになる。それに、混沌の力の危険さは厄介だ。更に言えば、正統な血統の王女などがいれば、我が国の有力者たちの中にはそれを利用して、現在の体制を覆そうという輩も出てくる。あなたは、今やどこへ行っても、害にしかならないのです、王女よ」
最後の一言は、エリーズに向けたものだった。が、エリーズは既に土の上に横になり、咳き込みながら血を吐くだけだった。
興味を失ったのか、グレインは、顔を上げて二人を捨て置き、周囲の騎士に向かって声を張り上げた。
「一人残らず殺せ。生かして事実を伝えさせるな。どのみち混沌勢力は邪魔になる。今ここで排しておくぞ」
エリーズの身に起こった突然の出来事に――絶望的な戦場にようやく現れた救いに裏切られたのだという、分かり易すぎる悲惨な事態に、すっかり放心してしまっていたシルヴィウスの民が、悲鳴を上げた。腹を斬られた混沌の娘が倒れ、半狂乱になってその身に縋りついた家族が次々に、剣や槍によって処理されていく。
混沌騎士は遅れて武器を構えたが、何もかもが遅すぎた。技量も体力も数も何もかも、比べ物にならない。
残党狩りが、書物の整理のような淡白さで行われていく。
「エリーズ……」
全ての音や声に喪失が含まれる中で、ユルゲンは並んで倒れているエリーズの名を呼んだ。彼女は、ユルゲンを瞳に映し、急速に薄れつつある意識を苦心して纏め上げ、それに応じた。
「ユルゲン――聞いてください」
「…………」
「私は、シルヴィウスの方々までも、失いたくはない」
短く荒い息を繰り返しながら、エリーズは集中する。
「秩序とは、可能性がある程度固定化されたもののことです。秩序化されたものは、その可能性を狭めることで有意味化し、逆に混沌は、物事の可能性を拡散し広げると同時に、無意味化します」
「エリーズ――君は」
ユルゲンは彼女の思いを察して、喉を詰まらせた。彼女は、竜核を貫かれて尚、その力を発しようとしていた。
この世を、祝福するために。
「ドラゴンは――混沌の使徒は、秩序化され有意味化された世界に、混沌をぶつけることで意味を相殺し分解し、原初的平衡を呼び込みます。原初的平衡とは、最も意味の無い状態であり、同時に最大の可能性を持った状態です。ユルゲン、私は――」
「君は、この世を見捨てない」
エリーズは小さく頷いた。共にいるユルゲンが自らをこの上なく理解していることに、死にかけながらも無上の喜びを感じて、笑みを浮かべた。
「私は、混沌の力を使います。可能性を呼び込むために。この世界は、ユルゲン、この世界は、行き詰ってはいない。時間軸に沿って、無数に可能性を吹き込む余地がある。混沌の力は、そのためにある」
秩序化は、やがて可能性をゼロにまで収縮させる。だからその反作用として、混沌の供犠も必要となる。
新しい可能性を吹き込み、世界に揺らぎを与えるために。
エリーズの混沌の力は、恐ろしく強い。彼女が力を出し切って混沌を呼び込めば、世界は大きく混沌に落ち、破壊される。同時に、呼び込まれる極大的な可能性は、世界を大きく変化させる楔にもなるだろう。
「最後だと言うのに、エリ、君の助けにもなれない」
全くもって情けの無い話だ、とユルゲンは自嘲した。が、エリーズは手を伸ばし、彼の頬に手の平を置いた。
「共にいてください。無数の可能性が生まれれば、いずれどこかで、私たちはもっと、上手くいくかもしれません」
「……そう、だな」
「皆を助けます。シルヴィウスの民だけを除外するように、混沌を広げます。ただ、その中心にいる私たちは、あまりに強い混沌の力を振りまけば、恐らく――」
「どの道、助からない」
「ごめんなさい、ユルゲン」
目を閉じて、謝罪し、エリーズは、秘術を行使した。
ランヴィエの騎士が異変に気づいたときには、既にエリーズの術は開放されていた。
瞬きするほどの間に、ランヴィエの騎士の内の数十名が、掻き消えた。虐殺の場の中心が灰色の光に一瞬満たされ、次瞬には混沌の波が辺り一体を駆け抜けていた。
巨大な混沌の灰核球が上空に形成され、強い混沌の力が渦巻いていた。地面からは秩序が勢い良く吹き上がり、核球に纏わりつく。
放射状に混沌波が広がり、世界から意味を引き剥がす。
ものの十数秒で、ランヴィエ国境付近を中心に、半径百キロ以上を混沌が引き裂き、砕き、崩した。
長く吹き荒れた破壊の波が収まった後には、ただ一色、灰色のみがあった。巨大な灰色の雲海が、抜け落ちた大地の大穴と、その上空を満たしていた。
シルヴィウスの生き残りは、みな、崩壊の最中にあって奇跡のように残された大地を駆け抜け、混沌の波の暴風の中を『偶然』潜り抜けることに成功していた。
彼らはしばらく、秩序と混沌の境にほど近い場所で、何も考えられずに呆けていた。
しかしその内、一人、二人と、その場を離れ始めた。
行く当てなど無く、東からは今も教会騎士やアナンダミドの軍が迫っていた。
傷ついたものも多く、身内を失い悲嘆の中にいるものも無数にいた。
それでも死の瞬間までには、まだ間があった。
なんであれ、それまでは生きるしかなかった。どうであろうと、可能性と価値を味わうより他になかった。
それを悲惨だと言うならば、確かにこの上ない悲惨さだと言えた。
だが秩序と混沌がそうであるように、喪失は、獲得の正逆であり、ある意味での同義語でもあった。
意識のどこかで生き続けるエリーズの声を思い出しながら、彼らは、一人か二人でもどこかへと辿り着くために、再び歩み、第二のシルヴィウスを求めて移動を始めた。
ここではない、「行き着く先」を求めて。ここが行き着く先だなどということを、断じて認めずに。




