第六話 王子様の願い事。(後編)
「ねー玲菜。なんでそんなに頭いいの?」
「普通です」
「いや、だから玲菜の普通基準高すぎだって」
放課後。無事に空き教室を借りたわたしたちは窓際の席で向き合っていた。
テスト前で部活が休みになったせいか、グラウンドはとても静かだ。
「わたしは自分よりもっとすごい人達を知っています。今でもたぶん足元にも及びません」
「えー!? 玲菜よりすごいやついんの!?」
「たくさんいますよ。学年一位でも全国で見ればうちの高校なんて中堅レベルです」
「はぁー、世の中甘くねぇな」
頭を抱えて机に突っ伏す加瀬。
窓越しに差し込む光が艶やかな金髪を照らしている。
わたしはその頭を教科書で軽く叩いて顔をあげさせた。
「いいんですよ、それで」
「え?」
「障害が高い方が燃えるじゃないですか。簡単にクリアできるハードルは夢とは呼べません。単なる予定です」
「玲菜……」
「あなたは落ち着きがないので長時間の勉強には向きませんが、瞬発力があります。それを活かしてなんとか短期間で基礎を叩きこみましょう。赤点くらいは免れるはず」
「おっ、頼もしー!」
「これから最低限のテクニックを伝授します。死ぬ気で覚えて下さい」
「りょーかい! あ、で報酬のことなんだけど」
机に掛けた鞄から何かを取りだそうとする加瀬。
わたしはそれを制して顔を横に振った。今考えることは報酬じゃない。
「それは結果が出てから話しましょう」
「え?」
「捕らぬ狸の皮算用」
「はい?」
「手に入るかも分からないものに期待して計画を練ることです」
「えーと」
「つまり、余計なことは考えないようにしましょう」
「前から思ってたけど、玲菜ってすげー男らしいよな」
素直に感心した声を漏らし、加瀬は片肘をついて頬を支えた。
「マジで惚れそう」
「惚れないで下さい」
「えー! なんで!?」
「これ以上あなたに振り回されるのはごめんです。それに、お金はいりません」
机の上で広げたノートにカーテンの影が映り込む。
締め切った教室はあたたかく、使われていない机や椅子からぬくもりを感じた。
わたしは頭に浮かんだささやかな願望を話してしまおうか悩んでいる。
ある意味でお金よりも価値のあるものをほしがっていたから。
「電話」
「電話?」
「夏休み中、電話したいです。その日どんなことをしたとか、何を食べたとか、そんな話がしたいです」
「え、そんなんでいいの?」
「はい。少しでかまいません」
あなたが元気だと分かれば満足です、と言いかけて口をつぐんだ。
だけど加瀬は誤魔化せない。穏やかに微笑んだあと、興味深そうな声を出す。
「無欲だね」
「何言ってるんですか。ぜいたく者ですよわたしは」
「どこがさ」
「こうしてあなたを独り占めしてるんですから、女の子たちに恨まれても文句言えません」
そう、加瀬は間違いなく女の子たちの憧れ。こんなふうに日陰者が独占していいはずがない。
おまけに今をときめく超高級ホテルグループの御曹司とあってはなおさら。
『加瀬くん! いまちょうど加瀬くんの話してたんだよ』
『俺の? なになにー!』
『加瀬くんの家があのフォーコンチネンタルホテルグループだって』
廊下での会話より、わたしはふっと寂しさを垣間見せた加瀬の表情が忘れられない。
そういえば前にもこんな顔をしたことがあった。
『デキのいい兄貴がいると弟は辛いぜ』
詳しいことは分からない。たとえ何かがあったとしても、家のことでは力になれない。
それでもどうにかして励ましたい気持ちが溢れてくる。
加瀬を元気づけたい。ただそんな想いでいっぱいになっていた。
「さっきのことは気にすることありませんよ」
「え?」
「クラスメイトに家のことを言われたとき、なんだか寂しそうでした」
「まさか。そんなわけ――――」
「あなたは十分才能に恵まれて、それを認めてくれるひとたちがいる。誰に何と言われても、あなたはあなたです。家や肩書は関係ありません。だから堂々としていればいいんです」
自然と笑顔が零れて加瀬を見つめた。
誰かのいいところを見つけて、それを本人に伝えられるのは幸せだ。
ひとつでも役に立てることがあるのも、こんなふうに頼ってもらえるのもくすぐったい。
わたしは嬉しくなって目を閉じた。
がんばろう。少しでも加瀬の力になりたい。
「それでは本題に入ります。まずはいちばん苦手な数学を」
勉強の相談をしようと教科書を開き、頬に落ちてくる髪を耳に掛けた。
次の瞬間、加瀬は机に置かれたわたしの手を握り、身を乗りだしてくる。
「え? 加……」
「ねぇ玲菜。忠告したよね」
加瀬はふたりの間に机を挟んだまま、中腰になって顔を近付けてきた。
カウントできそうなスピードで、十分に警戒心を煽っておきながら逃がさない。
不敵な微笑みはこれから起きるだろう事件を予測させた。
心臓が破裂しそう――――
加瀬の唇が目前まで迫り、こわくなって瞼を閉じた。
だけど唇に触れたのは冷たい何か。
そろりと瞼を開けると、そこにはノートが。
「ごちそーさま」
とろけそうな甘い声。
空いた方の手で掴んだノートを下ろし、硬直したわたしの髪に触れる加瀬。
首筋にしなやかな指が当たり、驚くほど冷たい体温に身震いした。
「間接キスしちゃったね。今のは謝らないよ」
大人なのか、子供なのか。
ときおり別人のように変身する加瀬はとても日陰者の手に負えない。
『そんな笑顔見せられたらブレーキ壊れそう』
忠告ってあれのこと?
何か言わなくちゃと加瀬を睨んでも、全く動じる様子はない。
握っていたわたしの手をさらりと離し、いつものお気楽な雰囲気を漂わせている。
「これから数学だっけ。俺、公式とか覚えんの苦手なんだよなー」
完全にしてやられた。反撃の好機もなく、熱を帯びていく体。
炭酸が弾けるような感覚に心が震えた。
こわい、でもイヤじゃない……。
一方、加瀬は信じられないほどリラックスしている。
ペンを回しながら、従順な笑顔で行儀よくわたしの指示を待っていた。
くやしい。この温度差はくやしすぎる。
「あんたなんか大キライ」
「ぐさっ! ひどいよ玲菜ぁ」
精一杯の強がり。わたしは握られていた方の手を膝に置いて握りしめた。
ドキドキが止まらない。まだ触れられたところが熱い。
加瀬はそれを見抜いてるのか、表向き傷付いたフリをしながら瞳は優しい。
まさか全部お見通しなんじゃないかって不安になる。
ちゃんと中間テストを乗り切れるかな。
止まってしまいそうな心臓を抑え、わたしはため息を漏らした。