第十八話 守りたいもの。(後編)
「そんなの勝手だわ」
「そうだね」
「っ、そんな目で見ないで反論してよ! 黙って拳を受けとめられるのは、もう嫌なのよ!」
どんっ、と強く胸を叩かれてよろけたわたしを咄嗟に引き戻す雪音。
苦悶に満ちた瞳は悲しみとも怒りともいえない色を湛えて揺れている。
「……奏は強いから、ひとりではきっと無理をしてしまうから。支えが必要だと思う。周りには彼を止められるひとが誰もいないの」
「玲菜に言われなくても分かってる、それくらい」
「うん。家族だもんね」
わたしも二人とほんとうの兄妹になりたかった――。喉まで出掛かった言葉は泡となって消えた。
伝えたくても口にしてはならない言葉がある。乏しい人付き合いの中でもそれくらいの分別は持てるようになっていたし、加瀬の存在がそれを踏みとどまらせてくれた。
「認めないわ。私は絶対、認めない」
「雪音」
「もう帰る。これタクシー代。ちゃんと渡したから」
「え? いいよそんな、悪いし」
「誰があげるって言った? 今度しっかり返してもらうから忘れないでよね」
「!」
「お母さまが買った玲菜の食器、まだ棚に残ってるからたまには顔見せなさいよ。玲菜がいないとお父さまが寂しがってうるさいのよ」
「……っ」
「お兄さまには私から連絡しておくわ。じゃあね」
助けてくれてありがとう――、帰り際に呟かれたひとことが鮮やかに焼き付いて離れない。
颯爽と病院を後にした雪音がこちらを振り返ることは一度もなかった。だけどそれが彼女なりに出した答えなのだと、緩やかに心が浮き立つのを感じた。
雪音の後ろ姿を見送り、しばらくしてポケットの振動に気付く。携帯が鳴っている。きっと加瀬だ。
わたしはひょこひょこ覚束ない足取りで病院を出て通話アイコンを押す。
「あ、玲菜? よかったぁーつながって! もうすっげー心配したんだからなー?」
「すみません。ちょっと、携帯に出れる状態じゃなくて」
「うあ、ごめん。まだ水谷たちと一緒だったの? それならまた後で掛け直すよ」
「いえ、そうじゃないんです。実はちょっとした不注意で怪我をしてしまって」
うっかりほんとうのことを話してしまってから後悔した。勘のいい加瀬のことだから、以前山で足を痛めたときのように隠し通すのは難しいだろう。それでも余計な心配をかけまいと、せめて会ったときに事後報告しようと思っていたのに。
「で、でもかすり傷なので大丈夫です! 念のため病院に――」
「いまどこ?」
「え? 二丁目の若葉病院ですけど」
「すぐに行く。そこから動かないで」
「あのっ――あ」
来なくていいと返事をする前に電話が切れてしまい、わたしは大きく息を吸った。
絶対に怒られると思っていたのに、やけに冷静だった加瀬の反応が気になってしまう。
いつもよりずっと低い声だった。プールで溺れそうになり、助けてもらった時の泣きそうな加瀬が脳裏をよぎり胸が軋む。
『その様子じゃ迎えがあった方が良さそうだ。ご両親に連絡をして――』
こんなときは普通、両親が迎えに来てくれるものなのだろう。実際、家族に付き添われて病院に来ているひとを何人か見かけた。そんな姿を横目に寂しさを感じなかったと言えば嘘になる。わたしが求め続けていたものは特別ななものじゃなく――日常のどこにでも存在する、当たり前のようでほんとうは奇跡のようにありがたい存在――家族だったのかもしれない。
宝条家のみんなは心に空いた隙間を埋めてくれた。だけどその穴が完全に埋まることはなかった。誰かの代わりになれるひとなんていない。それはもう分かってる。
「おねぇちゃんひとりなの?」
「!!」
「さっきからずぅっとここにいるよね。大丈夫?」
どれくらい時間が経っただろう?
ふと視線を落とすと小学生くらいの女の子がいた。大きな瞳を瞬かせて心配そうに見上げてくる。
しまった、そんなに不安が顔に出ていたのかと内心苦笑いし、わたしはできるだけ足首に負担がかからないよう膝を折って目線を合わせた。
「大丈夫だよ、ありがとう。あなたは?」
「わたしはここでパパを待ってるの。車を持ってくるんだって。ぜったいここから動いちゃだめだって言われた」
「約束守ってるのかぁ。えらいね」
「うん!」
満面の笑顔が咲きこぼれ、わたしはほんのり心が温まるのを感じた。
そこから動かないでと――加瀬に同じことを言われたのがなぜかとても嬉しかったのだ。
「玲菜!!」
ちょうど駐車場から一台の車が近付いたとき、懸命に走って来る人影が見えた。
息を切らしながら駆け寄って来るそのひとは、紛れもなく会いたかったひとだ。
「加――」
返事をしようとして声が詰まる。どうしてか喉の奥が痛い。
わたしために迷わず走って来てくれることが、こんなにも胸を熱くする――
「なーんだ、おねぇちゃんひとりじゃなかったね」
「え……」
「じゃあね、ばいばい!」
病院の正面へ停まった車に乗り込んだ女の子は最後に手を振ってくれた。
笑顔で振り返したいのに、笑おうとすればするほど涙が溢れそうになる。
「加瀬……っ」
駆け寄って来る加瀬の方へ向かって地を蹴った。両手を広げて思いきり抱き付くと、驚いた様子で受けとめる逞しい腕。わたしらしくない行動に戸惑いつつも、背中に回された加瀬の手は精一杯、応えてくれた。
「玲菜、大丈夫!? どこか痛いところとかない?」
「痛いです。すごく痛いです」
「え! ちょ、ちゃんと診てもらった? もっかい病院入って――」
「あなたを見るといつも胸が痛むんです。すごく幸せで、夢みたいで未だに体中がふわふわします。たくさん、数えきれないほど幸せをもらってるのにわたしはその半分も返せない。いつか罰があたっても神様に文句が言えません」
子供じみた甘えが溢れて、恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。加瀬の顔を見ることができず胸にもたれると、優しい手が伸びてきた。髪を梳きながら、丁寧に撫でられると肩の力が抜けていく。
「あー……もう、怪我したって聞いて一瞬心臓が止まったよ。気が動転して、電話で何話したかとか全部ぶっ飛んだ。そんで来てみれば玲菜は変なこと言うしなんなの? もらってるよ。玲菜が考えてる以上にたくさん幸せをもらってる。ただそこにいるだけでどれほど救われるかきっと誰にも分からない。究極、息してくれるだけでいいよ」
「それはちょっと言いすぎでは」
「あのね、そろそろ自覚して? 俺は玲菜なしの人生なんて考えられない。玲菜がいなくなったら確実に廃人になるよ。あれほど危ない目に遭わないよう忠告したのに、またこうやって寿命縮ませるとかいじめ?」
「す、すみません」
「ほんとーに反省してる?」
「はい」
「じゃあ反省タイムおわり。……ほんとに無事でよかった」
加瀬が安堵のため息を漏らした直後、彼がとても緊張していたことに気付く。
強張っていた体を少しでもリラックスさせたい。そう思って控え目に背中を抱きしめ顔をあげると、澄んだ紺碧の瞳が穏やかに細まる。
「こんなふうに誰かを好きになる日が来るとは思わなかった。自分が自分でなくなっていくようで少し怖いくらい、玲菜が愛しくてたまらないんだ。だから一秒でも長生きして側にいて。自分を大事にするって約束して?」
すっぽりと腕に収まる体を慈しむよう何度も、何度も抱きすくめられて愛しさに溺れていく。
このひとの腕の中では全てが調和している――そんな錯覚に囚われるほど――柔らかなぬくもりが、心に残った傷跡を癒してくれた。




