第十九話 はじめての気持ち。(前編)Side加瀬葵
九月。
二学期が始まって、実力テストを乗り越えた俺たちは文化祭の準備で大忙し。
ホームルームでの多数決から、というより女子の熱烈な希望により――うちのクラスは「お嬢さまカフェ」なるものを開くことになった。
男女ともに執事服を着るらしく、衣装係の子たちが楽しそうに裁縫している。
「とりあえずサンプルはこんな感じでいかがでしょう?」
「わー、すごーい! 芦田さん器用だねぇ!」
「どなたかに一度試着していただいた方がいいですね」
「あ、それなら加瀬くんがいい! 加瀬くーん、こっち来てー!」
思いがけず呼ばれた俺は、玲菜に近づく口実を得てかなり喜んでいた。
学校ではあまりベタベタしないでほしいという彼女のリクエストに不満を抱きつつも、それ以上に嫌な思いをさせたくない気持ちが勝っていたのだ。
「なにー、呼んだー?」
できるだけ自然に玲菜の隣へ立ち、作りかけの衣装を覗き込む。玲菜が近いとすぐに周りが見えなくなってしまうから――意識して適正な距離を保つ。今すぐ抱きしめたい衝動と闘ってるなんて知る由もない彼女が、無防備に俺を見上げて微笑む。不意に目が合い、愛しさが込み上げて瞳を細めた。
「芦田さんと加瀬くんって仲良いよねー」
「えっ。そ、そそそそうですか?」
「うん、なんか長年連れ添った夫婦みたいな感じー?」
「!!??」
「なーんてねっ、冗談だよぉ本気にした?」
「あ、い、いえ」
「だよねぇ! だって加瀬くんは特別だし。なんたってあのフォーコンチネンタルグループの――」
「やめて下さい!!」
教室中に響く声で玲菜が遮ると、周囲の空気が一気に緊張した。いつも穏やかな彼女が突然席を立ったのだ、衝撃を与えるには十分な出来事だった。ハッと我に返った玲菜は気まずそうに視線を逸らし、
「すみません、ちょっと外します」と出て行ってしまう。すぐに追いかけようとしたのだが、服の裾を掴まれた俺は足を止めた。
「水谷? ごめん、今ちょっと……」
「芦田さん彼氏いるよ?」
「え」
「この前合コン行ったとき、すごくカッコイイ男の子が迎えに来たの。白鳳凰学院の制服着てた」
白鳳凰学院――その名を耳にして浮かぶ顔はひとつだ。合コン云々よりよほど重要な情報だったのだが、玲菜が俺の恋人だとしても二人が会うことを禁じることはできない。北条奏は彼女にとって家族に等しい存在で、切っても切れない縁を持っている。
「それって一度校門で待ってたひとじゃない? すごい大騒ぎだったんだから!」
「私まだ写メあるよ! 見るー?」
「えー芦田さんの彼氏!? 見たい見たい!」
いつのまにか賑やかさを取り戻したクラスメイトたちが誰かの携帯に集まっていく。
水谷は混乱に乗じて声を落とし、諭すように続けた。
「ね、分かったでしょ? あの二人には割り込めないよ。一緒にいるときの空気がすごく良かったの。
芦田さんすごく安心してて、それに――」
「知ってるよ」
「え……?」
「あいつが玲菜にとってどれほど大切で、失いたくない存在なのか」
面倒なしがらみを抱えた俺と生きる――それは玲菜にとってかなり負担が大きい。加瀬の家に飼われてる以上、これからどんな妨害に遭うか見当もつかない。それ以上に人間的な「欠陥」――常に相手の求める自分を演じて真心から向き合えない重度の人間不信――を埋められない自分が彼女の側にいていいのだろうかという後ろめたさもある。それよりも幼い頃から親交があって、家族にも受け入れられている方がずっと幸せに違いない。実際あいつといる時の玲菜は、どこか苦悩しつつも安堵してるようだった。
「それでも玲菜は譲れないんだ。大切なんだ。世界中の誰よりも、何よりも――俺自身よりも」
どんな罰を受けたとしてもこのわがままを貫きたい。彼女が俺の手を選んでくれる限り、どこまでも強くなれる。内に秘めた意思の揺るぎなさを感じてか、水谷はそれ以上何も言わずに俯いた。
「水谷は気付いてたんだ? 俺たちのこと」
「……だって、嫌でも分かっちゃうよ。加瀬くんの芦田さんを見る目、すごく優しいから……誰にも見せない顔、してるから……」
「そっか。まだまだ修行が足りないなー」
「追いかけるの?」
「うん。ごめんね、ありがとう」
彼女だけが俺の心を動かす。まっすぐに、深いところまで――
水谷の肩を軽く叩き、俺はざわめいた教室を後にした。駆け足で玲菜のいそうな場所を探す。
途中で屋上に向かう階段から風が吹いて、俺は迷わず登り開きかけた扉を押した。
「玲菜見ーっけ」
声を掛けられビクッと肩をあげる玲菜。脅かさないよう距離を詰めると、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。あんな大声を出す気はなかったんです。せっかく盛り上がってたのに」
「いーって。はじめにちゃんとしなかった俺が悪いんだし、玲菜が謝ることじゃないよ。それに失礼なこと言われて怒るのは当然――」
「? 違います。怒ってるんじゃありません。私とあなたが誤解されるはずないことくらい分かってます。ただ……」
「ただ?」
「ただ、悔しくて……あなたはあなたなのに」
ふんわりとぬくもりに包まれて、心が和らいでいく。毎回良い意味で期待を裏切る彼女の言葉ひとつひとつに救われる。家のことを言われることに慣れて反論するのさえ面倒になっていた――むしろ周りの人間にどう思われようがどうでもよかった自分が恥ずかしい。自分のこと以上に胸を痛めて、真剣に考えてくれるひとがここにいるから――当たり前になってしまったことを見つめ直す機会を与えられるんだ。
「ん。ほらね、そーゆーとこ」
「え?」
「俺は玲菜のそーゆーとこに救われてるの」
胸にすっぽり収まる小さな体を抱き寄せ、彼女の頭に顎を置く。
不覚にもちょっと泣きそうになって慌てて上を向いた。雲ひとつない青空が心地いい。
「ほんと男らしーね。上杉謙信がタイプって聞いたときはナニソレって思ったんだけど納得。かっこいいよ玲菜は。俺の憧れ」
「加瀬こそ私の憧れですよ。無条件でみんなを笑顔にできるんですから」
「買い被りだよ。絶対そんなことないって」
「どうして絶対と言い切れるのですか? それとも家柄さえあれば人が集まってくるとでも思ってるんですか? それこそ思い上がりです」
「うあ、言われちゃった」
「人が生まれつき持っているものなんて限られています。痛みを知らなければ他人の痛みを察することなどできはしません。あなたがこれまで培った明るさや優しさは、あなた自身の痛みと引き換えに手に入れたもの。そう思うと複雑ですが、それでも挫けず、前を向いているあなたは素敵です。……元気をもらってるひとが沢山います。その事実を誇りに思って下さい」
「玲菜……」
辛い思いをした時、自分はダメなんだと落ち込んで挫けてしまったり、逆に周りが悪いんだと当り散らしてしまったり。相手と同じことをして自分を守ろうとする人間もたくさんいるけれど、それを乗り越えて逆に笑ってしまえるくらいの強さが欲しかった。優越感を満たすために他人を見下す人間の弱さも、保身のために見て見ぬフリする奴らの脆さも含めて――今なら少し理解できる気がするんだ。
「私もぎゅってしていいですか?」
「え? って、うわっ」
「ぎゅー!」
「ちょ、玲菜今ここでは色々ヤバイ……!」
「今更何言ってるんですか? それにもういいんです。誰に見られてもかまいません。私はあなたのもので、あなたは私のものでしょう?」
どんな顔でそんな台詞を言うのか――確かめたくても許してくれない。恥ずかしそうに、でも淀みなく言い切った玲菜は俺の背中に腕を回してくっついてくる。そんな仕草にどれだけ舞い上がってるかなんて想像もできないだろう。必死に冷静さを保とうと頭をフル回転させ、大切なことを思い出した。
「学祭のときさ、シェリルが来るって」
「え? お兄さまの婚約パーティーにいらしてた方ですか?」
「うん。玲菜にもう一度会いたいってさ。でも無理に相手しなくていいから」
正直加瀬の家に縁のある人間はあまり近付けたくない。それでも当日急に顔を合わせたのでは驚くだろうから、こればかりは隠す意味がなかった。さり気なさを装って伝えたつもりが、心配そうな声音が返ってきた。
「怖い、ですか?」
「……!」
「大丈夫です。彼女は私たちの味方です」
「なんでそんなこと分かるんだよー? もしかしたら兄貴の差し金かも」
「そんなふうに人を疑ってばかりだと心が曇りますよ」
抱きついていた玲菜が急に真剣な顔で離れた。やばい、これは相当怒ってる?
咄嗟に謝ろうとすればそれを制する玲菜。
「彼女の目を見ればわかります。それに根拠ならあります」
「え、なに」
「それは女同士の秘密です」
「えぇ!?」
悪戯っぽく舌を出し、教えませんよ~と意地悪く笑う。からかわれたと悔しがりつつ、こんな顔もするようになったのかと――出会った頃に比べて格段に表情豊かになった玲菜をいっそう愛しく思ってしまうんだから相当きてるよな。これは一生勝てる気がしない。
「そろそろ教室に戻りましょうか」
「そーいえば玲菜、あいつが彼氏と思われてるよ?」
「あいつ? あいつって……あ」
「心当たりアリ?」
「そ、そーいう言い方はないんじゃないですか!?」
「合コン行ったとか初耳だしー」
「うっ、そ、それは……! すみませんでした。もう二度と行きません。どんなに頼まれても断ります」
「少なくとも水谷はもう誘わないと思うから安心して」
「え、水谷さんに聞いたんですか?」
「別に~」
「なんか怪しいです」
「じゃあ誰が玲菜の恋人か分かってもらいましょーかね?」
「!! あ、ちょっと加瀬!?」
少し焦った玲菜の手を引き教室に戻った俺たちがどんな反応をされたか?
それを笑って話せるようになったのは、もう少し後の話だ――




