第十四話 パーティーが始まる。(前編)
玲菜視点に戻ります。
婚約パーティー当日。
午後に目覚めたわたしは加瀬の上着に気付いて赤面した。
いつのまに眠ってしまったのだろう。ベッドへ移動した記憶がない。
あたふたしている内にコンコン、と誰かが扉を叩いた。まさか、加瀬?
こんな時間まで寝てたことが知られたら恥ずかしくて爆発しそう。
寝起きの顔をなんとかしようと洗面台へ猛ダッシュしかけて固まった。
「失礼致します。玲菜様、入室してもよろしいでしょうか?」
聞き慣れない女性の声だった。おそるおそる扉に近付くと、スーツ姿の女性が三人。
「これよりパーティーのお支度をさせていただきます。どうぞよろしくお願い致します」
ポカンとしていると、「葵様より玲菜様のお手伝いをするよう仰せつかりました」と順番に自己紹介されてしまう。そして昨晩からシャワーを浴びてない体に触れられ、なぜか美女三人と共に屋内ジャグジーへ直行。
「ま、ままま待って下さい! 自分で脱ぎます! あ、洗えますからっ」
「そうはいきません。玲菜様は葵様の大切なパートナーですもの」
「葵様がこうしてどなたかをご指名されるのは初めてのことですわ。腕が鳴ります」
善意と厚意に満ちた三人は、笑顔を浮かべてわたしをすみずみまで綺麗にした。
お風呂から上がるとバスローブ姿のまま両手足の爪を整えられ、丁寧にマニキュアが塗られていく。
汗が引いたところで入念にメイクされ、髪を結われ、ない胸をコルセットで寄せてドレスを着る。
最後に香水を一吹きされて準備は終わった。
誰かにお世話されるなんて映画だけのおとぎ話だと思っていたのに。
こんな儀式があるなら事前に教えてほしかったと少々恨めしく思いながらも、お兄さんの婚約パーティーを前に色々と考えることがあるだろう加瀬を案じて気持ちを収めた。
人生初の海外旅行がファーストクラス利用。プライベートアイランドのビーチヴィラを独り占め。
相当気を張っていたせいか、時差のせいか、かなり惰眠を貪ってしまった。
深くお辞儀し、ヴィラを後にする三人にお礼を伝えて見送ったわたしは改めて鏡の前に立つ。
「自分じゃないみたい」
タフタ生地のイヴニング・ドレスは刀剣の鞘にたとえられる細長いシルエット。
袖やストラップはなく、ハート型にカットされた胸元から首筋にかけて素肌が露わになっている。
シャンパンカラーで統一され、床に着く長さのドレスは上品なプリーツで足元を彩った。
控え目に輝くアクセサリーはそれだけで存在感を放ち、プリンセス気分を盛り上げてくれる。
「大丈夫。今夜わたしは加瀬のパートナー」
臆病であがり症の芦田玲菜じゃない。12時の鐘が鳴るまで魔法は解けない。
暗示をかけるよう、鏡に映る自分へ囁きかけた。
そろそろ時間だ。パーティーが始まる。
わたしはひとつ深呼吸してクラッチバックを抱え会場に向かった。
「待ち合わせはここ、ですよね」
混乱を避けるため、できるだけ招待客の少ない場所を選んでもらった。
慣れない肌の露出が気になって仕方ない。落ち着かなければいけないのに。
「玲菜、お待たせ」
「あ、加瀬。わたしも今来たところで――」
ホッとして振り向いた瞬間、目を疑った。
黒いタキシードに身を包んだ加瀬はまさに完璧だった。いつもより格段に大人っぽい。
街中で高々掲げられるハイブランドの看板にだってこんなひとは見たことがない。
嘘みたいにきれい……。
「玲菜。おーい、玲菜? どうかした?」
「はっ。あ、すみません。加瀬があまりに素敵だったのでつい」
「うあ、先に言われちゃった」
「え?」
「想像以上だ。綺麗だよ、玲菜」
すっと前屈みになった加瀬はわたしの手を取ると、その甲に口づけた。
優美な所作はきっと長年に渡って研鑽されたものだろう。隙がない。
「これから会場に入るから、玲菜は俺の横に来て。手は腕に添える感じでね」
「わ、分かりました」
ゴクン。いよいよこの時が来た。
わたしは長い裾を踏まないように気をつけながら加瀬に従う。
どこからかバイオリンの生演奏が聞こえる。もうずいぶん人が集まっているのだろうか?
溢れんばかりのカサブランカに包まれた回廊はそれだけで豪奢だ。
「なんかすごいですね」
「緊張する?」
「大丈夫です。ちゃんと気合いを入れてきましたから」
「ははっ、頼もしー」
一瞬、ぴたりと足を止める加瀬。目と鼻の先には会場の扉がある。
急に真剣な表情でわたしに向き直ると、どこか緊張に張りつめた碧い瞳がそこにあった。
「あのさ。ひとつ言っておきたいことがあるんだ」
「はい」
「ここから先は加瀬葵じゃない。加瀬の御曹司になる。だから玲菜はそれをよく見ていてほしい」
「? 分かりました」
何を言っているのだろう?
半分も理解できないまま曖昧に頷いていた。
どこか不安を滲ませていた加瀬はすぐに気持ちを切り替えたのか、恐れなど微塵も感じさせない風格で扉を開いた。
「……っ!」
眩しい。うっすら瞼を開くと一斉に注目が集まる。
これは現実に起きていることなの?
そこは海に浮かぶ楽園のようだった。
浜辺に直結する巨大なヴィラからは360℃地平線が見渡せる。
全ての窓を開いた円形の空間はオープンエアに限りなく近い。
紅薔薇色の夕焼けは惜しみなくその光を届け、人々を華麗に包み込む。
無数のシャンパングラスが濡れて輝き、穏やかな風に純白のテーブルクロスがはためく。
わたしはただ目の前の光景が信じられずに呆然としていた。
「まぁ、ご覧になって! 葵様よ。今夜も素敵」
「ほんと。タキシードが良くお似合いですわ」
「隣のお方はどちらのご令嬢かしら」
ひそひそ話が耳に入って我に返る。ダメ。気圧されている場合じゃない。
ちゃんとパートナーの仕事を果たさなきゃ。でも――
コワイ
「あ……う」
コワイヨ ミナイデ
「玲菜?」
タクサン ヒトガミテル ツメタイ コウキノ シセンガイタイ――――
「玲菜。俺を見て」
視界が歪んだそのとき。フワッとあたたかい体温を感じて目が冴えてきた。
朦朧とするわたしを支えるように加瀬が立っている。
「あ、わ、わたし、いま」
「大丈夫。ちゃんと側にいるから。今ここにいるのは二人だけだと思えばいい」
「え」
「どんなにたくさん人がいても、俺の心に映るのは玲菜だけだよ。だからどんな視線も怖くない」
「加瀬……」
「信じて、玲菜。自分自身を。俺が世界で一番誇りに思う女の子を」
――――……
ふいに涙が溢れそうになってわたしはぎゅっと瞼に力を込めた。
どうして、どうしてこのひとはいつも欲しい言葉をくれるのだろう。
弱さも、脆さも、全部受け入れて肯定してくれる。
「Hi, Aoi! Long time no see」
「Good evening Sheryl.Thankyou for coming tonight」
「Of course I'll come! 今夜はお兄様の婚約パーティーですもの。ふふっ、英語は忘れてないみたいね。安心したわ」
なんとか持ち直したわたしは笑顔を取り繕った。
声を掛けてきたのは、鈴を転がすように笑う20代後半くらいのレディだ。
そこはかとなく上流階級の匂いがする。身につけている物ではなく、彼女自身から。
「あら? もしかして彼女が噂のパートナー?」
「はい。僕のわがままで出席してもらいました」
「まぁまぁ、そうだったの。へぇー、そう。貴女が……」
チラッとわたしに視線を向けた彼女は慈しみを込めた瞳をわずかに揺らした。
? どうしたというのだろう。
「はじめまして。芦田玲菜です」
「はじめまして! 私はシェリル・ガートランド。葵の元教育係です。お会いできて嬉しいわ。ずっと楽しみにしてたのよ」
「え? あ、光栄です」
「いやんっ、可愛いわ~食べちゃいたい」
「シェリル。彼女はそういうの慣れてないから」
「はーい。ナイト様に怒られちゃった。てへ」
長身の加瀬と並ぶくらい背が高いシェリルさんはスーパーモデルみたい。
均整のとれた美貌は同性に劣等感さえ抱かせないほど圧倒的。
ブロンドはきっと天然、よね。加瀬の金髪よりも色が濃くて蜂蜜のよう。
「加瀬の周りは美人ばかりですね」
「そんなことないと思うけど?」
子供っぽいと分かっていて拗ねた声が漏れてしまう。
それを聞き逃さず素早くフォローするあたり抜け目ないというか加瀬らしい。
「あ、そろそろパーティーが始まるみたいね。チャオ! 可愛い日本の妖精さん」
「きゃっ」
チュッと頬に唇が落ちて驚いた。これって海外式の挨拶なのかな?
初対面の美女にキスされちゃうなんて、貴重な体験かも。そう思ったとき、
「――負けないで」
耳元で囁かれた声の真剣さに驚いた。加瀬にも聞こえない、小さな声だった。
顔をあげればにっこり微笑んだシェリルさんがウインクして去っていく。
「玲菜。どうかした?」
「い、いえ。なんでもありません」
気のせい、かな? 聞き違いかも。
雑念を振り払い、加瀬の腕に再度手を添えて司会者の方を向いた。
「Ladies and gentlemen! 今夜はご足労いただき誠にありがとうございます。これよりフォーコンチネンタルホテルグループの次期代表取締役社長、加瀬進とフィフスセンス・ラグジュアリー&SPAグループのご令嬢、御堂遥の婚約披露パーティーを始めます」
盛大な拍手喝采が起きたあと、スポットライトを浴びた二人を見て衝撃が走った。
「こんばんは。加瀬進です」
開会の挨拶を代わったそのひと――加瀬のお兄さんは全く葵に似ていなかったのだ。
容姿は確かに整っていて、目鼻立ちも悪くない。だけど葵には遠く及ばないどころか、根本的に異質だ。もちろん兄弟だって双子でもない限りそこまで瓜二つにはならないだろう。だけど――
――胸騒ぎがする。
ドクン、ドクンと脈打つ心臓が何かを警告するように疼いた。
自然と加瀬の腕に添えた手に力がこもる。そのときだった。
「私からの挨拶は以上です。みなさん、存分にパーティーをお楽しみ下さい」
言葉を切った加瀬のお兄さんと目が合った、気がした。
彼の口元に微かな笑みが浮かんでぞくっと背筋が凍り付く。
どうしていま奏を思い出したんだろう? 少しも共通点はないのに。
「始まるね」
「え、ええ」
『始まるね』
それはパーティーのことじゃない。
加瀬に掛けられた言葉の真意を知るのは少し先の話。
自分の運命が大きく変わる分岐点に立たされていることに、わたしはまだ気付いていなかった。




