第十三話 真夏の夜の夢。(後編)Side加瀬葵
後編は葵視点のお話です。
「わざわざ送ってくれてありがとう」
「いーって。俺がそうしたかっただけだし」
「素敵なディナーでしたね。一生の思い出です」
「玲菜が喜んでくれて嬉しいよ」
キャンドルライトディナーの後、俺は玲菜をヴィラまで送った。
いくらプライベートアイランドとはいえ今はたくさんの招待客がいる。
万が一酔った野郎にでも絡まれたら、なんて想像すると気が気じゃなかった。
「じゃ、また明日」
「はい。おやすみなさい」
ぺこりと頭を下げる彼女はとても可愛い。
いちいちお礼なんていらないのに、と思うようなことでも必ず礼を欠かさないのだ。
それをいじらしいと思う一方、まだふたりの間に残った遠慮が胸を軋ませた。
もっと近付きたいと願っているのは俺だけかもしれない。
「あ、あの」
背中を向けたとき、ふいにぎゅっと引かれて振り向く。
視線を落とすと、頭一個ぶん小さい玲菜が控え目に服の裾を掴んでいる。
「どうかした? あ、もしかして一人で寝るの寂しいとかー?」
「ち、ちち違います。ただ、その、あの」
ヴィラから漏れる光がぼんやり俺たちを照らす。
満天の星空に包まれながら、とても恥ずかしそうに瞳を伏せる玲菜が愛おしい。
「お茶飲んで行きませんか?」
「へ?」
「いま加瀬が背中を向けたとき、なんだかすごく心細くなって。それで……もう少しだけ一緒にいてくれたら嬉しいです。ダメ、ですか?」
――――……。
ダメダヨ ソンナコトヲ イッタラ
「すみません。明日も早いですし、やっぱり迷惑ですよね」
キミハ シラナインダ ボクハ イイヒトナンカジャナイ
「十秒だけ」
「え?」
「十秒だけ俺にちょうだい。玲菜にもっと近付きたい」
「……っ、はい。わたしももっと加瀬に近付きたいです」
心臓が大きく跳ねては沈む。彼女は知らない。俺がどれほど彼女を渇望しているかなんて。
躾けられた善人ぶってほんとうは熱に冒されたまま抱いてしまいたいという欲望にまみれた自分がいる。
俺はじっと待っている玲菜に手を伸ばした。
怖がらせないよう細心の注意を払って優しく腕に抱く。
そのまま部屋へ連れ去ってしまいたい衝動に抗いながら、そっと髪を撫でる。
大人しく腕の中でうつむく玲菜の肩が震えた。
ずいぶんがんばって応えてくれているんだ、なんて分かっている癖に自由にしてあげられない。
「……こっち向いて?」
「あ、あんまり見ないで下さい」
「どうして」
「恥ずかしいです。わたしはお世辞にも可愛いとはいえませんし」
「ぶっぶー! ネガティブ発言禁止。ペナルティです」
「えっ」
「玲菜からキスして。どこでもいーよ。お好きなところへどうぞ」
「……っ」
「なーんてね。今のはさすがに意地悪しすぎ――」
少しからかってみたい。
意地悪をしたつもりだったのに、ふっと玲菜の気配が近付き頬を掠める唇の感触。
目の前に星が散って、玲菜が背伸びをしたんだということに一瞬気付けなかった。
何か言おうと口を開けば、これまでになく真紅に染まった彼女の羞恥と困惑に満ちた顔がすぐそこに。
「あーもー!!」
「か、加瀬?」
何これ辛すぎんだけど!!
腕の中に気になる女の子がいてキスされたのに我慢ってどんな拷問?
「自覚してよ頼むから。俺の理性が飛ぶ前に」
「え」
「可愛いよ。すごく可愛い。てゆーか可愛すぎてどーしていーか分かんない」
「か、からかわないで下さい。加瀬の周りには可愛い女の子なんていくらでも――」
「いるねーたくさん。でも可愛いからってキスしたくなるのは玲菜だけだよ」
ジリ、と胸の奥が熱くなる。きっと玲菜は薄々気づいてるはずだ。冗談で言ってないことくらいは。
だけど答えに詰まる程度にしかまだ俺を見ていない。
すぐ夢中にさせるつもりだったのに、これじゃ逆だ。苛々する、仕方のない自分に。
「お茶淹れてくれるんだよね? じゃあ遠慮なく」
「あ、はい。どうぞ」
「サンキュー」
戸惑っていた玲菜はいつもの俺を見てほっとしているようだった。
解放した彼女の後ろで苦笑いを零したところで、知る由もないだろうに。
俺は促されるままソファに腰掛けた。いい機会だ。少し話しておきたいことがある。
「明日さ。兄貴の婚約パーティーじゃん?」
「はい」
「なんか聞いときたいこととかある?」
「聞いときたいこと?」
「いきなり言われても困るか。たとえばどんなひとが来るのかとか、会場の雰囲気とか」
「それはあなたのパートナーとして知っておくべきことですか?」
「いや、基本的に玲菜は同行してくれるだけでいいから。ただ不安を少しでも和らげようと思って」
「それなら問題ありません。だって加瀬が側にいてくれるのでしょう?」
「え……」
「あなたが隣にいて不安に思うはずないじゃないですか。どんなひとがいても、どんな場所であってもわたしはあなたに恥じない自分でいるだけです」
手際良くお茶を淹れてくれた玲菜は「冷めないうちにどうぞ」と手渡してくれた。
彼女の言葉ひとつひとつに狂おしいほど堕ちていくというのに相手は全く自覚がないなんて始末が悪い。
これまでどれだけの人間が俺を利用しようと近付いてきただろう。
己の野心を満たしたいだけの大人たちに囲まれて育った俺に、彼女は新しい世界を垣間見せてくれる。
だけどこれは危険な賭けだ。彼女を巻き込めばもう後戻りできない。
「はぁ。……どんだけ無防備なんだよ」
俺が色んな思いを巡らせている間に彼女は眠ってしまった。
「お茶を飲むとよく眠れるんですよ」と微笑んでから五分だ。早すぎじゃね?
つーかこの状況はどうなの。友達とはいえヴィラにふたりきり。誰も来ない密室だぞ。
それなのに気持ち良さそうな顔で俺の肩にもたれ掛かる玲菜。
自分にどれほど価値があるのかなんて微塵も気付かない玲菜。
「う……ん。加瀬……」
「ぷ、ハハッ!」
ここまで男として意識されてないといっそ清々しいわ。凹む余裕もないっつの。
きっと玲菜のことだから『信用』してくれてるんだろうけどさ。イタイなぁ、俺。
『あなたの隣にいても恥ずかしくないわたしでいたいです。守ってもらうばかりじゃなく、守ってあげられる人になりたいです』
『ぜ、ぜいたくな願いだと分かってますよ。特別になりたいと言ってるわけじゃありません。ただ、加瀬の力になりたいんです』
あの日、放課後の教室で。側にいてほしいと懇願した俺に伸ばされた柔らかな手。
俺のてのひらよりずいぶん華奢で、強く握れば壊れてしまいそうだったのに。
何よりも貴重なぬくもりがそこにあった。確かなあたたかさがすぐ側に。
「友達、ね。けっこうがんばってるつもりなんだけどな」
玲菜を起こさないようフワッと抱きあげ、音を立てないようベッドへ運んだ。
天蓋付きの広いベッドは白で統一されている。彼女を横たえると、眠れる森のお姫様みたいだ。
「ねぇ、玲菜。……いい加減気付いてよ。玲菜といると幸せだけど苦しいんだ」
ギシ、と鈍く軋むベッドの端へ腰掛けた。自分の上着を脱いで彼女に掛ける。
微かに瞼が動き、嬉しそうに口元が緩む。桜色の艶やかな唇がすうすうと寝息を零した。
――キスしたい。できるならこのまま自分のものにしてしまいたい。
目が覚めた彼女が驚き、怯え離れて行くかもしれない恐怖と、たとえ傷付けても繋ぎとめておきたいという身勝手な願望がせめぎ合う。
誰よりも大切にしたい。だけどめちゃくちゃにしたい。
きっと玲菜は少なからず自分に好意を抱いてくれているのだろう。
そうでなければ警戒心の強い彼女がここまで無防備な姿を晒すはずがないのだ。
だけどひとつだけ誤算がある。
玲菜は知らない。玲菜が俺を求める以上に、それよりもずっと――何倍も自分は玲菜を求めている。
「おやすみ玲菜。優しい夢を見れますように」
これくらいなら許されるだろう、と。俺はゆっくり前に屈んで彼女の額に口づけた。
願わくば少しでも君の心に居場所がほしい。
しばらく玲菜を見守ったあと、俺は戸締りを確認してヴィラを後にした。
灯りの極端に少ない島では月が煌々と輝いている。
浜辺から地平線の向こうまで続く白い道は天に登る梯子のようだった。
「ずいぶんだいじにしてるんだな」
「兄貴」
「遅いからてっきりそのまま泊まるのかと思ったよ」
「俺ら一応高校生なんだけど」
「ははっ。そんな理由じゃないんだろう?」
波打ち際で佇んでいた兄は手に持っていた石を遠くに放り投げた。
二、三度弾んだそれはあっという間に暗闇へ呑まれていく。
「なに。言いたいことでもあるの」
「うーん、そうだね。彼女が大切で仕方ないって顔に書いてる。お前にそんな目をさせるなんて一体どんな子だろうと思って。――芦田玲菜ちゃんは」
「……っ、明日玲菜に会っても余計なこと言うなよ」
こいつだけは騙せない。大人の中で育てば自然と嘘が上手くなる。相手の嘘を見抜くのも然りだ。だけど長い時間側で過ごした相手にはささいな動揺まで隠すのは難しい。
「俺は何を言われてもかまわない。これまで通り加瀬グループのために働く。だから」
「彼女には手を出すなって? それならどうしてここに連れて来たんだい? 父上や母上の目に留まれば面倒なことになる。なぜなら――」
「婚約パーティーは明日だろ。フィアンセを放っておいていーわけ?」
「おっと、そうだった。まぁ、せいぜい大人しくしているよ」
涼しい顔でひらひらと手を振り去っていく兄。むかつく。
長居は無用だ。俺が反対方向へ踵を返したとき、背中越しに声がした。
「葵。大きくなったな」
「!!」
振り向いても遅い。既に椰子の群れへ姿を消した相手は見えなくなっていた。
俺はひとり拳を握り締め、すっかり熱の冷めた砂を蹴り上げる。
「っ、子供扱いしやがって」
明日は婚約披露パーティーだ。公式パーティーは別途催されるものの、加瀬グループに縁の深い人間が多数集まる社交の場。
そこへ玲菜をパートナーとして出席させることの意味を。俺ではなく「加瀬の御曹司」と肩を並べる重圧を。
彼女が果たしてどう受け止めるのか。それはまだ誰にも分からなかった――。
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次回からいよいよ加瀬(兄)の婚約パーティーです。
加瀬×玲菜を取り巻く状況が少しずつ変わっていきます。お楽しみいただけると嬉しいです。




