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元戦国剣士の公爵令嬢は、愛ではなく忠誠で辺境伯を護る  作者: 枢氷みをか


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6/15

二人の直談判

 公爵邸を出てからのリュシエリアーナは、淀みのない足取りで、脇目も振らず教皇公邸へと向かっていた。


 もはや肌に馴染んだ騎士さながらの装いに身を包み、長い黒髪を外套のフードに忍ばせているリュシエリアーナの表情は険しい。いつものように街を逍遥(しょうよう)する余裕など微塵もなく、ただひたすらに、胸の奥に積もった苛立ちを、どう教皇にぶつけたものかと、そればかりを考えていた。


 ─────『ただ私は、権力にものを言わせて他者を従わせるやり方は、あまり好きではないのだよ』


 困ったように微笑みながらそう語った教皇の姿が、否応なく脳裏に浮かぶ。

 その舌の根も乾かぬうちに、彼はあっさりと権力を行使し、婚約を断行したのだ。今となっては、その言葉のすべてが空々しい。


(……リオンおじ様にも、事情があるのだろう。人を揶揄うのがお好きな御仁ではあるが、無慈悲な真似をなさるお方ではない)


 それでも、一言物申さなければ、腹の虫が収まらない。


 リュシエリアーナは石畳を蹴るように歩を進め、教会に足を踏み入れる。いつものように身体検査を免除され、通された奥室────教皇の自室の扉の前で、折り目正しく佇んでいる長身の人物の背が、リュシエリアーナの視界を奪った。


(……あの後ろ姿)


 見覚えがある。

 白銀に輝く髪色と、そして後ろ姿からでさえ溢れ出る、その静謐(せいひつ)な美しさ────。


「……!」


 リュシエリアーナが声をかけるより早く、その人物は気配を察したように、わずかに視線を後ろへ流した。その視線の先に思いも寄らぬ人物を見つけ、苦悩に歪んでいた彼の端正な顔は瞬く間に朱に染まり、盛大に緩むことになる。


「あ、貴女は……!?」

「奇遇だな。まさかこのような場所で再会するとは」


 リュシエリアーナもまた、自然と顔を綻ばせる。先ほどまで胸中で渦巻いていた苛立ちが、彼の姿を見た途端、春の雪のように消え失せたのは、自分が思う以上に彼との再会を待ち望んでいたからだろうか。


(相変わらず、目の保養になる美しさだ)


 美しいものを愛でる心は、多かれ少なかれ皆持っているものだ。その愛でる心を余すことなく満たすように、恍惚とした瞳で彼の尊い姿を視界に留めながら、リュシエリアーナは歩を進ませた。


「貴方も、教皇猊下に拝謁する許しを─────」


 得ているのか、と続けるはずだった言葉は、以前と同様、彼女の歩に合わせて後ずさる彼の振る舞いに、ぴたりと止まる。わずかな沈黙を経てから、リュシエリアーナは呆れたように目を細めた。


「…………まだ私が貴方を不快に思うなどと、誤解しているのか?」

「ああ、いや……! そういうわけでは……!」

「では、どういうわけだ?」


 じりじりと間合いを詰めながら、リュシエリアーナは追い詰めるように問いただす。

 そんな彼女と合わせるように、やはり後退する彼───ラファシアンの顔は、火を吹くように赤い。その赤面を隠すように、彼は慌てて口元を掌で覆った。


「……な、慣れていないのだ……! 貴女のように、私を不快に思わない女性など、今まで一人もいなかったから……!」

「!」


 思わぬ切実な告白に、リュシエリアーナの足がぴたりと止まった。


「だ……だから……!……できれば、その……少し……距離を取ってもらえると助かる……」


 視線を逸らし、消え入るような声で囁く彼の横顔には、面映ゆさと初々しさが溢れている。

 耳朶(じだ)まで真っ赤に染め上げるその様子に、リュシエリアーナは呆気に取られたように目をぱちくりとさせた。


(……なんとも初心(うぶ)な事だ)


 これほどの美貌を持ちながら、女子(おなご)に対する免疫が皆無に等しい彼の様子は、どこかちぐはぐで見ていて妙に可笑しい。


 前世の世界であれば、これほどの美丈夫(びじょうふ)を女共が放っておくはずもない。そういう色男は決まって有頂天になるか、あるいは群がる娘たちに辟易して冷淡になるものだ。

 彼のように殊勝なほど控えめで、少し距離を詰めただけでこうも狼狽える美男子など、稀有を通り越してもはや珍獣の類ではなかろうか。


(前世の私も、女子(おなご)は苦手で狼狽えもしたが、さすがに彼ほど顕著ではなかったな……)


 何せ今の自分は、美の象徴である黒髪を隠している。彼がここまで(たか)ぶっているのは、目の前にいるのが『絶世の美女』だからではない。単に、女子(おなご)という存在そのものに慣れていないだけなのだ。


 その事実が、かえって彼の純粋さを際立たせているように思えて、好ましい。

 リュシエリアーナはくすりと喉を鳴らして、彼の意を汲むように、狼狽える彼から一歩だけ距離を取る。彼の隣に並んで、未だ火照ったままの横顔を覗き込むように首を傾げた。


「これでいいか?」

「! ……あ、ああ……だ、大丈夫だ……!………ありがとう」


 小さく謝意を述べて、ふわりと微笑みを向けてくるリュシエリアーナから、彼は弾かれたように顔を背けた。

 その胸の鼓動が、早鐘を打つように跳ね上がっている事を、彼女は知る由もない。


(………おかしい……鼓動が、鳴り止まない……!)


 ラファシアンは無意識に、左胸の辺りを強く押さえた。


 鼓動が早いのは、彼女が唐突に現れたからだ。ただ、驚いただけ。

 顔が熱を帯びるのも、ひとえに女性に慣れていない所為(せい)

 なのに、この鼓動は鳴り止むどころか、彼女の存在を意識するたび、口から心臓が飛び出しそうなほど激しく波打っている。


(……落ち着け……勘違いをするな、ラファシアン……!)


 これは、恋などではない。

 彼女を、女性として意識しているわけでもない。

 勘違いをするな─────。


 自分に噛んで含ませるように、ラファシアンは心中で何度も自戒を繰り返す。わずかに訪れた沈黙が、妙に居たたまれない。


 二人の間に流れた静寂は、ほんの数秒の事。それでも、まるで永遠のように長く感じられたその短い静寂を、重厚な扉の開く音が唐突に破った。


「!」


 開いた扉の先から現れたアランは、並んで立つ二人の姿を認め、わずかに眉を動かした。


「……お二人ご一緒に、こちらへいらしたのですか?」

「い、いや……! そうではない……!」

「ただの偶然だ。私が来た時には、すでに彼がここに控えていた」

「……さようですか。お二人は、お知り合いで?」


 何やら二人の間に、親密な空気が流れている事を鋭く読み取って、アランは淡々と問いを投げる。

 その問いに、二人は思わず顔を見合わせた。


「あ……いや、知り合いというか……」

「二日前に、窮地を助けていただいた」

「! そんな大層な事をしたわけではない……!」

「そう謙遜するな。助かったのは事実だ」


 くすくすと喉を鳴らしながら、リュシエリアーナは狼狽するラファシアンを見やる。

 傍から見れば、どう見ても仲睦まじい光景だ。

 それを黙って視界に収めたアランは、しばし沈黙した後、(うやうや)しく一礼した。


「……少々、お待ちいただけますか」


 それだけを言い残し、アランは再び部屋の中へと取って返す。そのまま最奥の部屋にいる教皇の元へと、静かに足を運ばせた。


「? どうした、アラン。ラファシアンを迎えに行ったのではなかったのか?」

「ええ……そのつもりでしたが」


 アランは言葉を切り、一拍置いてから静かに報告を続ける。


「リュシエリアーナ嬢も、ご一緒にお見えです」

「リュシーが?」


 リオンフェルドは顔を上げ、驚きに目を見開いた。


 ─────来るとは思っていた。

 リュシエリアーナの気性を考えれば、きっと憤慨してすぐさま抗議に来るだろう。

 一方のラファシアンも、あの生真面目さだ。重々しい勅令という言葉に驚き、相手の令嬢を(おもんばか)って、取るものも取り敢えず(いさ)めに来るに違いない。


 あわよくば、その道中で出会ってくれれば、と淡い期待を抱いていた。


(まさか、これほど鮮やかに事が運ぶとは……)


 思惑通りの展開に、思わず愉悦を含んだ笑みが漏れる。

 その様子に呆れを滲ませつつ、アランは話を先へ進めるように問いかけた。


「いかがなさいますか。先に辺境伯をお呼びいたしましょうか?」


 肯定しかけて、リオンフェルドはすぐさま口を閉じた。わずかに思案する仕草を見せてから、逆に問いを返す。


「……二人は、互いに相手が誰だか知っている様子だったかい?」

「いえ……どうやら二日前に偶然顔を合わせただけの『行きずりの知己(ちき)』といったご様子です」

「そうか……」


 これは好都合だ、と言わんばかりに口角を上げる教皇を、アランは黙認した。

 こういう時の教皇は決まって、事態を楽しむ悪い癖がある。

 それを重々承知しつつ、深追いせずに小さくため息を落とすアランへ、リオンフェルドは慈母のごとき柔和な笑顔を向けた。


「それなら、二人一緒にここへ呼んでくれるかい」




「…………あの男は、約束通り騎士の詰所に連れて行った。安心してほしい」


 ラファシアンが唐突にそう切り出したのは、アランが部屋に消えてすぐの事。沈黙に耐えうる忍耐が限界を迎え、必死に思考を巡らせて絞り出したのが、この言葉だった。未だ彼女の姿を直視できず、顔は背けたままだ。


「そうか。骨を折らせたな、感謝する」

「………い、いや。大したことはない」


 彼が一向にこちらを見ようとしないのは、照れ隠しからくるものだと察したリュシエリアーナは、くすりと喉を鳴らす。


「本当は私が担ぎ込めればよかったのだがな……今の私はどうにも非力らしい。……女子(おなご)の体というのは、色々と不自由で面倒だ」


 心底うんざりしたように深いため息を落とす彼女を、ラファシアンは視界の端で捉えた。


 見下ろす彼女の体躯は、自分と比べて驚くほど細く、小さい。こうやって並ぶと、彼女の背丈は自分の肩にも届いていない。外套に隠れてはいるが、服の上からでも線の細さは明白だった。


(……これほど小さな体で、あれだけの神速を振るうのか……)


 ラファシアンは、あの時の彼女の一部始終を、鮮烈に記憶していた。


 悲鳴を聞きつけ現場に駆け付けた彼の目に飛び込んできたのは、風のように地を駆け、一瞬のうちに暴漢を斬り伏せた一影─────あの見事な足捌き、体捌きは、一朝一夕で身につくものでは断じてない。


「……貴女は─────」


 騎士なのか、と続けようとした問いは、だが再び開いた扉に遮られた。

 二度目に姿を現したアランは、今度は扉を大きく開放し、室内を掌で示す。


「どうぞ中へ」


 その促しがどちらに向けたものなのか判断に迷って、二人は互いに顔を見合わせた。


「あー……私は後でいい。順番で言えば貴方が先だ」

「い、いや……!私は別に後でも─────」

「お二人ご一緒に、と猊下は仰せです」


 譲り合う二人の間に、アランが静かな、しかし拒絶を許さぬ声を差し込む。

 その一言に二人はなおさら目を丸くして、もう一度視線を交わした。示し合わせたかのように二人同時に小首を傾げ、仲良く「え?」と声を揃える二人に、アランの微かな失笑が添えられたのは、言うまでもない。





「やあ、二人とも。来ると思ったよ」


 アランに促され、部屋に足を踏み入れた二人へ向けて、リオンフェルドは惜しげもなく柔和な微笑みを送る。その声音一つ取っても、彼がいかに上機嫌であるかは、もはや説明するまでもないだろう。


「……猊下の貴重なお時間を拝借し、拝謁の光栄に浴しましたこと、深く感謝申し上げます」


 折り目正しく(こうべ)を垂れるラファシアンに倣い、リュシエリアーナもまた騎士の敬礼を捧げる。型通りの挨拶を終えて、リュシエリアーナはすぐさま抗議の火蓋を切ろうと口を開いたが、教皇の先んじた一言に、その言葉は虚しく喉の奥へと呑み込まれた。


「ここに来たのは、婚約の事だね?」

「そうです……!」


 答えたのは、二人同時。一言一句違わぬ拒絶を、同じ熱量で吐き出した相手に、二人は驚愕して互いの顔を窺った。


「………貴女もか?」

「………貴方もか?」


 再び重なった問いかけの、あまりに見事な阿吽の呼吸に、リオンフェルドは堪えきれず吹き出した。そのまま朗らかな哄笑(こうしょう)が部屋に響く。


「ずいぶんと馬が合うようだ……!」

「リオンおじ様……! 笑い過ぎです……!」

「ああ……! すまない……!」


 くつくつと笑いを噛み殺しながら、目尻に溜まった涙を指先で拭い、リオンフェルドは改めて話を進める。


「それで? 婚約を解消してほしいと、揃って嘆願しに来たのかな?」

「当然です……! 私が神殿騎士の地位を望んでいる事は、重々ご承知のはず……! なにゆえ婚約を命ぜられるのですか……!?」

「婚約をする事と神殿騎士になる事は、必ずしも相反する話ではないよ、リュシー」

「!」


 母と全く同じ理屈を突きつけられ、リュシエリアーナは言葉を失った。武士として、理にかなった反論を封じられるのは、何とも歯がゆい。


 沈黙した彼女に代わり、今度はラファシアンが沈痛な面持ちで口を開いた。


「……私も、このような強引なやり方には賛同いたしかねます。これでは相手のご令嬢があまりにも不憫です。一族の血を絶やさぬことが国への忠義であるとは認識しております。ですが、情を無視した強権の発動は、後々、取り返しのつかない遺恨を招くでしょう。……どうか、ご再考を」

「……ふむ」

「……リオンおじ様は私に、『権力で他者を従わせるやり方は好まない』と仰ったはずです。ご自身のお言葉に、背を向けるおつもりですか?」


 二人の射抜くような視線を受け、リオンフェルドは静かに、彼らが並び立つ姿を眺めた。

 二人の間に(またが)る距離は、わずか半歩分だ。誰もラファシアンの傍に寄る事を許容せず、その視界に映る事さえ厭う者たちが多い中で、リュシエリアーナだけはさも当然のように、彼の隣に堂々と立ち続けている。


 その、奇跡とも呼べる美しい光景に満足げな笑みを深め、リオンフェルドは重い口を開いた。


「……どうやら君たちは、大きな勘違いをしているようだ」

「! ……勘違い、ですか?」

「確かに『教皇勅書』を発令したが、その心まで縛るつもりはない」

「! では─────!」


 途端に、二人の瞳が期待に煌々と輝く。

 二人の性格は天と地ほどの差があると言うのに、こちらの言葉一つで同じ反応を見せる様子が、見ていて飽きることがない。


 湧き上がる愉悦を慈悲深い面持ちの奥へと巧みに押し隠し、リオンフェルドは静かに問いを投げた。


「ひとつ訊ねよう。君たちは、婚約相手の事を正しく理解したうえで、解消を願い出ているのだね?」

「……っ!」


 先ほどまで希望に煌めいていた二人の瞳から、途端に光が引いていく。


「相手と言葉を交わし、その為人(ひととなり)を見定めたうえで、それでもなお自分とは合わないと判断した─────そう受け取って構わないのだね?」

「そ……それは………」


 二人は返答に窮して、言葉に詰まる。これには、さすがに返す言葉もなかった。


 顔を合わせていないどころか、どういう人物かさえ知らない。何も知らず、ただ感情のままに否定し、あるいは「相手はこうだろう」と一方的に決めつけ、漠然とした不安に突き動かされて解消を願い出た─────その行為は、浅慮(せんりょ)という他ない。


 いかなる美辞麗句を並べ立てようとも、この事実は覆しようがないのだ。


 申し開きの術をすべて奪われ、貝のように沈黙する二人へ、リオンフェルドはなおも柔らかく、しかし逃げ道を塞ぐように言葉を重ねた。


「解消を申し出る事自体は構わない。だが断るのであれば、まずは相手を知るべきだろう。よく知りもせず、そして正当な理由もなく拒絶すれば、相手は深く傷つき、名誉を汚されたと恨むかもしれない……それは騎士として、人として、あまりに礼を欠く振る舞いだとは思わないかな?」

「─────……」

「君たちが相手と対面し、言葉を尽くし、それでもなお婚約の解消を望むというのなら、私は喜んでそれを受け入れよう。……だが、今ではない。それで納得してくれるだろうか」


 反論を許さぬ正論を前に、二人はただ静かに耳を傾けるしかなかった。

 わずかに静寂が訪れてから、最初に降伏を受け入れたのはラファシアンだった。


「……猊下のおっしゃる通りです。返す言葉もございません」


 苦渋を滲ませながら、彼は深く(こうべ)を垂れる。


「私は勝手に相手の偶像を作り上げ、愚かにも偏見で断じておりました。相手のご令嬢を(おもんばか)ったつもりが、その実、為人(ひととなり)を見定める価値さえないと見下していたのです。人として、これほど人道に(もと)る行為がありましょうか」


 ラファシアンの真摯な言葉を受けて、リュシエリアーナもまた諦観を含んだ息を深く吐いた。


(……確かに、拙速(せっそく)に過ぎたな)


 容姿のみで相手の価値を量るなど、武人の風上にも置けぬ愚行だ。

 前世においても、風貌に関わらず優れた人格者は多く存在した。人を惹きつけ、命を預けたいと思わせるものは、決して顔の造作ではない。揺るぎない信念と、それに基づく生き様こそが、人の価値を形作るのだ。


 そう、それはよく判っている。冷静になって、改めて理解した。

 だが─────。


(………………私が婚約を嫌がるのは、相手が『男』だから、何だがな)


 結局、そこに結論が至る事に、リュシエリアーナはたまらず内心で苦笑を漏らす。


 もはや、論点が根本から違うのだ。

 どれほどの人格者であろうと、下半身に余計なものがついている時点で、婚姻の対象外。こればかりは対面しようが語り明かそうが、覆る道理がない。


 ─────とはいえ、この殊勝な空気の中で、自分だけが『否』と突っぱねられるほど、自分は厚顔無恥ではいられないのが難点だが。


 今なお許しを請うように頭を下げるラファシアンをちらりと一瞥し、彼女は再び、今度は諦観を多く含んだ深いため息を落とした。


「─────猊下の御心のままに」


 軍門に下るように(こうべ)を垂れたその姿を、リオンフェルドは満足そうに眺めて、慈愛を湛えた笑みを返す。


「……よろしい。では、君たちの婚談の儀は三日後、ここ教皇公邸にて執り行うものとする」

「!?」


 教皇の唐突な宣言に、二人は弾かれたように顔を上げる。


「ここで、執り行うのですか?」


 同時に問うたのは、それが異例中の異例だからだ。

 通常、婚約者同士の初顔合わせである婚談の儀は、女性側の屋敷で行うのが慣例だ。女性側は万全の準備で『歓迎の意』を示し、男性側は足を運ぶことで『相手への敬意』を表す。教皇公邸でそれを行うということは、家門同士の格式を重んじる通過儀礼を一切排除する、という宣言に等しい。


 目を丸くする二人に、リオンフェルドはくすりと喉を鳴らした。


「この婚姻は私の独断だからね。ゆえに私の管理下で執り行い、その推移をつぶさに把握したい。君たちにとっても、不満があれば即座に解消を願い出られるこの場所の方が、何かと好都合だろう」


 そう言って、教皇は穏やかに微笑む。


「相手側には私から沙汰を伝えておく。三日後の儀まで、心を落ち着けておくといい」


**


 リュシエリアーナは、少し前を歩く彼の後ろ姿を、何とはなしに眺めていた。

 背筋はまっすぐに伸びているというのに、その歩みは重く、肩口には拭いきれぬ後悔と、見知らぬ婚約者への申し訳なさが、色濃く滲み出ている。


 教皇の自室を辞してからというもの、彼は一言も発していない。

 沈黙をまとったまま回廊を進むその背が、あまりにも痛々しく見えて、リュシエリアーナは思わず声をかけた。


「……貴方はもっと、堂々と振舞っていい」

「─────え?」


 予期せぬ言葉に、彼はぴたりと歩みを止めて、リュシエリアーナを振り返る。視界に入れた彼女は、回廊越しに望める中庭に視線を向けたままだ。


「……貴方は何ひとつ、後ろ暗い事などしていない。それほど謙遜する事も、ましてや自責の念に駆られる必要もない。むしろ貴方ほど心が清らかな者に嫁げるのだから、相手の令嬢は、己の果報をこそ感謝すべきだろう」


 ラファシアンは耳を疑った。

 中庭に顔を向けたままの彼女の横顔には、わずかな憤りすら滲んでいる。それが何に向けられたものなのか判断に窮したが、何より驚いたのは『心が清らかな者』という、あまりにも身に余る評価だ。


 立ち尽くしたまま、ラファシアンは戸惑いを隠しきれず、視線を宙に彷徨わせる。


「………私は別に、心が清らかなわけでは─────」

「清らかだよ、見れば判る」

「………見れば?」

「性格はな、本人が思う以上に顔に出るものだ」


 淡々と、しかし断言する声音だった。


「どれほど顔立ちが整っていようとも、性根の腐った者は、それ相応に顔が歪む。どれほど巧みに取り繕おうとも、ふとした拍子に表に出るものだ。笑顔を装う時、怒りを押し殺す時、内心で相手を侮蔑した時────年を重ねるほど、なおさらそれは顕著になる」


 そう語りながら、リュシエリアーナは歩を進め、彼の横を追い越す。

 数歩先で足を止め、今度は真正面から彼を振り返った。


「だが貴方の顔には、それら一切の嫌味がない。どこまでも澄み切った水のように清廉で、天に広がる青空のように爽やかだ。貴方のその容姿もさることながら、これほど心根の美しい人も、そうそういない」


 そう言って、曇りひとつない微笑みを向ける彼女に、ラファシアンは虚を突かれたように慌てふためいた。


「そ……それは……! 過大評価だ……! 貴女はあまりに私を買いかぶり過ぎている……!」

「では当ててみせようか?」

「え?」

「貴方は他者に対して、腹の底から怒った事などないだろう?」

「!」

「どれほど罵詈雑言を浴びせられようとも、憤るより先に、自分が悪いと思い込む(たち)ではないのか?」

「そ、それは……!」

「その上、相手がそこまで至った経緯を考え始め、最終的には自分が追い込んでしまったのだろうと結論付けて、申し訳ないなどと悔やむ、救いようのないお人好し─────違うか?」


 図星を突かれて、もはやぐうの音も出ない。

 言い返す言葉も見当たらず、ラファシアンは白旗を上げるように口を閉ざす。

 その様子を見て、リュシエリアーナはくすりと笑った。


「そんな貴方の婚約者になれるご令嬢は、世界一の果報者だな」


 その眩いほどの笑顔に、ラファシアンは思わず目を奪われた。

 喉が塞がったように言葉が出ず、ただ歩を進める彼女の後を追って歩き出す。


 何かを言わなければ─────そう思うのに、なぜか胸が詰まって言葉が出ない。胸中に広がる正体不明の熱に翻弄され、思考はただ混迷を極めていた。


「では、ここでお別れだな」


 いつの間にか教会を出ていたようで、石畳の路地で踵を返し、こちらへ向き直った彼女の姿が、夕映えの中に鮮烈に広がる。


「あ……ああ、また─────」


 どこかで。

 そう続けかけた言葉を、ラファシアンは飲み込んだ。

 軽やかに背を向け、遠ざかっていく彼女の姿を、ただ成す術もなく見送る。


(……『また』と言ったところで、再び相まみえる時には、彼女はすでに他の誰かの婚約者だ。余所(よそ)の男の妻となる彼女に、気安く声をかけるわけにはいかない……)


 きっと、これが最後だ。

 この眩い光を放つ彼女と、言葉を交わせるのは─────。


「……貴女の婚約者が、よき人であることを願う!」


 立ち去る背に向けられた、凛とした声に彼女は振り返る。


「私もだ。貴方の婚約者が、貴方自身を見定める目を持つ、よきご令嬢であることを祈っている」


 そう言って晴れやかな笑顔を残し、彼女は今度こそ歩み去った。

 その小さくなっていく背を、ラファシアンは瞼に焼き付けるように見つめていた。


 これは、恋などではない。

 髪色に関係なく、自分という存在そのものを見てくれた唯一無二の人物に、心を動かされただけだ。

 その光を、この先一生失うことに、ほんの少し寂しさが募っただけ。

 ─────そうに違いない。


 必死にそう自分に言い聞かせながら、ラファシアンは引かれる後ろ髪を振り切るように、力強く一歩を踏み出した。

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