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公爵令嬢は辺境伯に愛ではなく忠誠を誓う  作者: 枢氷みをか
序章・出会いと婚約

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小さな誤解・後編

「ラファ様、待たせたな」


 応接室の扉を軽く二度叩き、リュシエリアーナは逸る気持ちを抑えつつ、努めて平静を装って扉を開いた。開かれた視界のその先に、ソファに腰を下ろすラファシアンの姿を捉えて、歩み寄る。


「私からもラファ様の屋敷に赴こうと思っていたところだ。ちょうど良かった」

「! ……そう、ですか」


 彼女の言葉に、ラファシアンは一瞬だけ確かに目を見開く。だが、すぐさま深い諦観を孕んだ吐息を漏らし、項垂れるように視線を落とした。


(……?)


 その様子がおかしい彼の姿に、微かな違和感が胸をかすめる。

 わずかに逡巡したものの、逸る気持ちに背を押されて、リュシエリアーナは彼の対面へと腰を下ろした。


「それで────」


 言葉を切り出しながら、懐の小箱へ伸ばしかけたリュシエリアーナの手が、思わず止まる。


 薄れたはずの緊張感が、この期に及んで再び鎌首かまくびをもたげた。小箱に伸ばした指先に微かな震えが走る。


 自覚したリュシエリアーナはそれを誤魔化すように一度小さく息を吐き、視線をわずかに逸らした。


「あー……まずは、ラファ様の用件から聞こうか」


 逃げに入ったのは明確である。

 たかが贈り物を渡すという行為が、よもやこれほどまでに緊張を伴うとは──。それも戦場に赴く時とは、また違った緊張感だ。慣れないからこそ、御し難い。


 出自の判らない感情に振り回される己を自嘲しながら、ふと視線を上げた瞬間、リュシエリアーナの胸が思わず大きく跳ねた。


「ラファ様……?」


 見慣れた、穏やかな顔立ち。

 だがその奥にあるものが、決定的に違う。


 まるで、何かを押し殺しているかのような、静かな、あまりにも静かな、諦念の気配。


 ────嫌な予感がする。


「……リュシエリアーナ嬢」


 呼ばれた柔らかな声音に、リュシエリアーナはわずかにビクリと肩を震わせた。


 その声は、どこか決定的に遠い。

 すぐ目の前にいるのに、手を伸ばしても届かないような、そんな絶望的な隔たりを感じる。


 ラファシアンは言葉を慎重に選ぶように、一度視線を伏せた。


「……本日は、その……お伝えしたいことがあって参りました」


  そのひどくぎこちない仕草が、彼女の胸のざわつきをいっそう激しいものに変えていく。


 込み上げる不安が何に対するものなのか、それは判らない。

 ────だが、この先に続く言葉を、聞いてはいけない気がした。


 こくりと生唾を飲み込むリュシエリアーナなど尻目に、ファシアンは一度、苦々しくまぶたを閉じた後、意を決したように口を開いた。

 それはゆっくりと、だが確実に、言葉を紡ぐ。


「リュシエリアーナ嬢。私は……貴女との婚約を、白紙に戻していただきたく思っております」

「……は?」


 あまりにも唐突な言葉に、リュシエリアーナの思考がわずかに止まる。


 言葉の意味は判る。意味だけならば。

 だが、その意図が判らない。


 数拍遅れて、思考がようやく動き出した。


「……何を、言っている? ────いや待て。……懸想けそうの相手ができた、ということか?」


 元よりそういう約束だった。

 その取り決めを提案したのは、他ならぬ自分だ。あまりに時期が早すぎるとは言え、それをとやかく言う資格など自分にはない。


 ――だが。

 胸の奥に、説明のつかない違和感が刺さる。


(……何だ?)


 その答えが出るより先に、ラファシアンは静かに首を振った。


「……それは、貴女の方ではありませんか?」

「? 何の話だ、それは」

「昨日の……その、一件を拝見いたしました。貴女には、すでに想いを寄せる方がいらっしゃるのでしょう……」

「……待て。話が見えない」

「……いえ、どうかお気になさらないでください。むしろ……当然のことだと、そう思っております」


 まるで自分に言い聞かせるように、ラファシアンは仄かに笑う。


「私は、貴女の隣に立つべき男ではありません。……もっと、相応しい方が隣にいるべきだ」

「!」


 穏やかなその声音が、リュシエリアーナの胸をざらりと疼かせる。

 この、焼けるような痛みの正体は、一体何だろうか。


「私は、貴女に救われました。だからこそ……これ以上、貴女の足枷にはなりたくないのです」


 彼女の返答など、最初はなから待つ気もないのだろう。ラファシアンは吐き出すように言い終えると、ソファから立ち上がり、深く一礼した。


 そうして、最後に目一杯の、あまりにも穏やかな微笑みをリュシエリアーナに送る。


「どうか────どうか、お幸せに」


 そのまま踵を返す彼の背を見た瞬間、リュシエリアーナは思考よりも先に、本能で地を蹴った。


「待て!!」


 必死に伸ばした手は、虚しく空を切る。

 逃げるように去っていくその背を追おうとした瞬間、からん、と乾いた音を立てて床に転がる小箱に、ほんの一瞬気を取られた。慌てて戻した視界にはもう、ラファシアンの姿はすでにない。伸ばした手だけが、所在なく虚空を掴んだまま、震えていた。


(……どういう事だ?)


 一人取り残された応接室で、リュシエリアーナは彼が立ち去った扉を射抜くような眼差しで凝視したまま、ただ立ち尽くしていた。


 記事の内容と、ラファシアンの余所余所しい態度、そして父の理不尽な叱責。

 どこかで繋がっているようで、何かが抜け落ちている気がする。


(私に想い人ができた……? 一体誰のことを言って────)


 ────(婚約者がありながら他の男と逢引など……!)

 ────(価値観がズレすぎていて父上と会話が成立しない事が──)


 父と兄の言葉が、やけに耳に残っている。


(……他の、男?)


 その瞬間。

 脳内を覆っていた霧が、一陣の風に払われるように晴れ渡った。


「…………は?」


 思わず間の抜けた声が漏れる。


「……いや、待て。待て待て待て」


 心臓が、どくりと激しく警鐘を鳴らした。


(まさか……ラファ様は、あの記事の『美男子』を────自分だとは思っていない……?)


 記事を読めば、本来であれば一目瞭然なのだ。

 あそこに書かれているのは昨日、神殿騎士たちが現場検証をしていた場での出来事。そこに居合わせ、自分と共に駆けたのはラファシアンただ一人だ。『公爵令嬢と手を取り逃げた、絶世の美男子』と書かれていれば、嫌でも自分を指していると気づくはず。


(…………いや、だが)


 己を醜いと疑わないラファシアンのこと、果たしてこの記事に書かれた『美男子』を、自分と結び付ける事ができるだろうか?


 だとすれば。

 もし、その推測が正しいとするならば────。


「……っ!!」


 胸の奥が、万力で締め上げられたかのように軋む。


(だから、あのような……!)


 あの不自然な微笑。

 あの一線を引くような立ち居振る舞い。

 そして、己を消し入るような決別の言葉。


 すべての断片が一気に意味を持ち、鋭利な刃となって突き刺さった。


「……なんということを……っ」


 無意識のうちに、拳を血が滲むほどに握りしめる。


(ラファ様は、私のためだと思い込み──身を引こうとしたのか……!)


 いや、それは身を引くなどという生易しいものではない。己の心を、己の存在を、無慈悲に切り捨てるような決断だ。

 その断腸の思いを抱えて、わざわざ『幸せになれ』などと抜かしに来たのか。


(そんなもの……っ! 私は断じて望んでいない!!)


 そんなものは、優しさなどではない。

 自己否定の果てにある、ただの暴力だ。


「……ふざけるな」


 地を這うような、低い声が漏れた。


「誰が、そのような不義理を頼んだ……!?」


 怒りにも似た感情が、喉元までせり上がってくる。

 それが何に対する怒りなのかは判らない。

 だが、この感情を彼にぶつけないことには収まらない。


 リュシエリアーナは地を蹴り、床に転がっていた小箱を荒々しく掴み取ると、その勢いのまま部屋の扉を乱暴にね退けた。


**


「待て、ラファ様!!」


 屋敷の外、石畳の上でようやく追いついた背中に向かって、リュシエリアーナは叫ぶ。

 その声に、ラファシアンはゆっくりと足を止めた。振り返ることなく、ただ頑なに背を向けたまま。


 ────その、逃避を決め込んだ姿が、いっそう腹立たしい。


「……私の言葉を聞く気など、毛頭ないか?」


 怒りを孕んだ低い声音に、彼の背がびくりと強張る。


「自分の言い分だけを押しつけて満足か? 貴方にとって私は、向き合うほどの価値もないか?」

「……っ! 違います、私は……っ!! 私はただ……っ、貴女のことを思って────」


 ようやくこちらを振り返ったラファシアンの顔は、苦渋に激しく歪んでいる。それでもなお、悲痛なほどに美しいその相貌は、リュシエリアーナの憤りと落胆に満ちた表情を認めた途端、凍りついたように見開かれた。


「……私のことを思って?」


 硬直するラファシアンの鼓膜に、低く、押し殺した声が響く。


「そうではないだろう。貴方はただ、傷つきたくなかっただけだ。私のためなどと言葉を飾り立て、真実を確かめることすらせず、自分の心を守るために私を切り捨てて逃げただけだ……!!」

「……っ!!」

「私の隣に立つべき人間ではない? お幸せに? ……勝手なことばかり……っ!! 誰がいつ、ラファ様を足枷だと言った!? 私の隣に立つ人間を、なぜラファ様が決める!? 私の幸せが何かなど知らぬくせに……!!」


 言葉が、止まらない。

 せきを切って溢れ出した言葉は、己の制御を離れ、奔流となって溢れ出す。

 叫べば叫ぶほど、自分自身ですら気づけなかった奥底に眠る感情を、半ば強制的に揺り起こす感覚に似ていた。


「こんなものに踊らされて……!! 容易く私を切り捨てるか!」


 忌々しそうに石畳に叩きつけたのは、くだんの新聞だ。


「……そうだろうな。私と貴方が出会ったのは、たかだか数日前のことだ。私たちの間にあるものは、思っているよりもずっと希薄なものなのだろう。……少なくとも、貴方にとっては」

「っ!! 違います!! 私は────」

「違わぬ!! だからこそ、このようなくだらぬことで、私たちのえにしをこうも容易く断ち切る事ができたのだろう!!」

「!!」


 言葉を遮るように吐き出された彼女の言葉に、ラファシアンは息を呑む。


「ラファ様にとって私はその程度の存在か!? たったそれだけのことで、手放しても構わぬと思える程度のものか……っ!?」

「待ってください……!! 私は────」

「私はっっ!!」


 ――そこで。

 言葉が、制御を外れた。


「私は!! ラファ様の隣りにいる事がこんなにも────」


 ────こんなにも、安らぐというのに。


 不意に口を突いた言葉に、リュシエリアーナ自身、驚愕に目を見開いた。


(何を────)


 慌てて、自身の口を掌で塞ぐ。


 確かに、彼は他の男とは違う。

 女であることを執拗に強いることもなく、下卑た視線で舐めるように見ることもない。淑女の仮面を被ることを求めず、ただ『私』という個を見つめてくれた。


 彼は今世で初めて得た、家族以外で唯一、自分を理解してくれる友人だ。


 だが、まさか────。


(私は……)


 思考が揺らぐ。


(ラファ様を失うことが……)


 ゆっくりと、だがそこで初めて、確かな輪郭が浮かんだ。


(────怖いのか?)


「……リュシエリアーナ嬢?」

「!?」


 唐突に言葉を切り、硬直した彼女を不安げに見つめながら、ラファシアンはおずおずと呼びかける。その声に、リュシエリアーナは弾かれたように現実に引き戻された。


 はっと息を呑み、困惑に眉を寄せる彼を一瞥すると、彼女は逃げるように踵を返した。


「……もういい。好きにしろ」


 屋敷へと足早に歩みを進めながら、その内側では激しい後悔が泥のように沈んでいた。


((────なぜ、こうなった?))


 立ち去る背と、立ちすくむ影──次第に距離が離れる互いの心に、同じ問いかけが落ちる。


 ────こんな、言い争いがしたかったわけではない。


 ただ、失いたくなかっただけだ。

 なのに、容易く離れようとするから。

 自分には相応しくないと、勝手に幕を引こうとするから。


 こんなくだらぬ誤解で、私たちの歩みは終わってしまうのか────。


(……いやだ)


 強い拒絶が、胸の奥から湧き上がる。


(嫌だ……! ラファ様がよくとも、私は────!)

「リュシエリアーナ嬢……っ!!」

「!」


 踏み止まろうとした彼女よりも早く、大きな温もりがその腕を絡めとった。


「待ってください、リュシエリアーナ嬢……!! 私は、貴女のことが────!!」

「──!!」

「貴女のことが…………」

「……………………」

「……………………」

「………………続きはどうした? なぜ黙る」


 問い詰める彼女の前で、ラファシアンは返答の代わりに、盛大に赤らめた顔を俯かせた。言葉が喉で絡まり、もはや口を開くことさえ困難らしい。


 耳朶じだどころか首筋まで茹で上がったように赤く染める彼の様子に、リュシエリアーナは小さく息を吐いた。


「……私が聞きたいことは唯一つだ。──私と共にいたいか、離れるか。忖度そんたくも私の都合も一切捨て置け。ラファ様自身の望みを聞かせてくれ」


 その問いに、ラファシアンは弾かれたように顔を上げる。


「私は……! 私は貴女の隣にいたい……! たとえ貴女が別の誰かを選んだとしても……!! それでも私は、その場所を誰かに譲りたくはない!!」


 叫ぶように吐き出したその言葉の後、ラファシアンは息を詰めた。


「……それでも」


 かすれるような声が、続く。


「それでも私は、貴女に相応しいとは……思えません」


 それでも、と。

 それでも尚、離れたくないのだと。


 その矛盾を抱えたまま、彼は彼女を見つめていた。


 初めて剥き出しにされた本音と、それでも拭えない彼の自己否定にわずかに瞳を見開いた後、リュシエリアーナは一拍置いて、春の陽だまりのような笑みを零した。


「……まあ、及第点と言ったところか」


 満足げに喉を鳴らすと、リュシエリアーナはふところから、大切に抱えていた小箱を取り出す。


 あれほど手渡す場面を想像しては緊張に身を固くしていたというのに、思いの丈をすべて吐き出した今となっては、不思議なほど心が凪いでいるというのも、皮肉な話だ。


 胸の内にくすぶる自嘲にかすかな笑みを落として、リュシエリアーナは小箱を開く。

 その小箱から出された繊細な輝きを放つイヤーカフを、ラファシアンは不思議そうな眼差しで見つめ返した。


「……それは?」

「婚約発表の夜会で、私の色を身に纏ってくれるのだろう?」

「……!」


 返ってきた言葉に、ラファシアンは本日、何度目かも判らぬ赤面をさらけ出した。


 これは、夢にまで見た婚約の証だ。

 それも、贈ってくれたのが思いを寄せる相手などと、奇跡にも等しい。


 噴き出す熱を隠すように口元を覆うラファシアンに、リュシエリアーナはイヤーカフを掲げた手を、すっと伸ばす。


「かがんでくれ、ラファ様」


 もはや言葉を紡ぐ余裕すら失い、ラファシアンは言われるがままに深く腰を折った。


 目前まで下りてきた、透き通るような白銀の髪。それを優しく耳にかけ、リュシエリアーナはなお赤らんでいく彼の左耳にそっと触れた。慣れぬ手つきながらも一分いちぶの迷いもなく、イヤーカフをその耳朶へと滑り込ませる。


「……やはり、ラファ様によく似合っている」


 彼の耳元で静かに揺れる自らの色を、愛おしげに指先でなぞり、リュシエリアーナは満面の笑みを向けた。

 こうなってはもう、ラファシアンには返答はおろか、彼女を直視することさえ叶わない。全身から湯気が立ち上っているのではないかと思うほどの熱に、たまらず目元を手で覆う。言葉を探して口をわななかせ、ようやく、絞り出すような声を零した。


「………………光栄、です。……この上なく」

「どういたしまして」


 くすりと失笑を返し、リュシエリアーナは憑き物が落ちたような心地で、安堵の溜息を落とす。

 そうして改めて、ラファシアンへ向き直った。


「ラファ様、忘れないでくれ。私は、ようやく得た──…」


 そこで、言葉が詰まる。

 続く言葉が見つからない。


 二人の関係を的確に言い表す単語が判らず、必死に思考を巡らせるリュシエリアーナの様子に、ラファシアンは目を瞬いた。


「……リュシエリアーナ嬢?」

「……! い、いや……! ……だから、その……! と、とにかく……! 私は自ら離れるつもりはない! 私が離れる時は契約通り、貴方に懸想の相手ができた、その一度きりだ……! だから……! ……だから、もう二度と私を見失うな」

「……!」


 ラファシアンは、思わず息を呑んだ。

 視界に映る彼女の表情が、微笑んでいながらも、どこか壊れそうな寂寥せきりょうを湛えているように見えたからだ。


 ラファシアンの脳裏に、かつて教皇にたしなめられた事を思い出す。


(……私はまた、偏見で物事を判じて、同じ愚を犯そうとしたのか)


 自嘲めいた笑みを薄く作って、ラファシアンは左耳へと手を伸ばした。


 そこにある、リュシエリアーナから贈られた、彼女の色を宿したイヤーカフ。


 確かな重みを優しく指先で確かめ、誓いを心に刻むように一度だけ瞳を閉じる。そしてゆっくりと瞼を持ち上げたその瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。


「約束します。このイヤーカフに誓って、必ず」




「ところで……」


 二人並んで屋敷へと戻る道すがら、ラファシアンは躊躇いがちに、探るような声を出した。


「その……例の『絶世の美男子』というのは……一体、どこの誰なのですか……?」


 バツが悪そうに視線を泳がせながら訊ねる彼に、リュシエリアーナはじろりとした、呆れ混じりの視線を投げ返す。


「…………」

「…………あ、あの?」

「…………はあ」

「えっ!? な……何ですか、今のため息は……!?」


 びくりと肩を震わせ、捨てられた仔犬のように不安げな顔をするラファシアンに、リュシエリアーナはわずかばかり不満そうに鼻を鳴らした。


「……記事の内容をよく読めば、誰だか判る」


 そう言いながら、リュシエリアーナはわずかに視線を逸らした。


(……なぜ、私が教える必要がある)


 自分でも理由の判らない、微かな引っかかりが、彼女の顔を険しくする。


「え……? 内容を、ですか……?」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………怒ってます?」

「少しな」


 躊躇のない即答に、ラファシアンは悄然と項垂れた。

 彼の早とちりで、心身ともにこれほど疲弊させられたのだから、これくらいの意地悪は許されるだろう。


 リュシエリアーナは、叱られた大型犬のように背を丸めるラファシアンを盗み見て、小さく口元を緩めた。

 ラファシアンもまた、肩身が狭そうにしながらも、前を歩く彼女の背中を愛おしげに、恐る恐る視界に収める。


 二人の脳裏をよぎったのは、互いが口にしかけて飲み込んだ、あの言葉────。


(私は、貴女の事が────)

(私はラファ様の隣にいる事が、こんなにも────)


 ────後に続く言葉は、一体何だっただろうか。


 溢れ出しそうな期待と、消えぬわずかな不安が、胸に宿る。


(……なぜ、あの言葉を言えなかったのか)

(もし、あの時口にしていたら──何かが変わっていたのだろうか)


 わずかな後悔の残滓ざんしを自覚しつつ、二人はそれを胸の奥に秘め、再び歩調を合わせて並び立てるという小さな奇跡を、静かに噛みしめた。


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