婚約破棄から始まる物語
教皇の絶対結界。
魔法も武器も封じられたその大聖堂で、彼女はドレスを蹴り上げ、太腿に仕込んだ氷の刃を抜いた。
中身は駿河一の剣豪。
男に嫁ぐなど死んでも御免だが、この『美しき主』に捧げる忠誠なら、ここにある――──。
**
この世界の美的感覚は少し────いや、異様なほどかなり変わっている。
「……リュシエリアーナ=マレグレン公爵令嬢。この度、王太子アレクスフォード=ギルリアンとの婚約を破棄するものとする……!」
重々しく下された宣告が、謁見の間に静かに沈んでいく。王の声は重く、低く、そしてわずかに掠れていた。
威厳を保とうとしているのは明らかだが、その奥底にある苦渋までは隠しきれていない。
それも当然だろう。
血縁である従姪の婚約を、王として自らの口で破棄せねばならないのだから。
だが────。
「はい……! 謹んでお受けいたしますわ、陛下」
当の本人はどうか。
リュシエリアーナは、深々と優雅に一礼しながら、口元に柔らかな微笑を浮かべていた。
それはこの国で『絶世の美女』と称されるに相応しい、非の打ち所のない微笑みだ。
淑やかで、慎ましく、そしてどこまでも美しい。
──少なくとも、この世界の基準では。
(……終わった)
九年。
長かった、と言うべきか。あるいは、よく耐えたと言うべきか。
少なくとも、『楽しかった』とは断じて言えない歳月であったことだけは確かだ。
────そう、これはよくある断罪劇などではない。
王太子が婚約者を差し置いて他の女性に心を移した、という事実だけを切り取れば、ありふれた構図ではある。それもリュシエリアーナよりも爵位の低い令嬢、そして『妖精王の愛し子』と言われる、ここフォルトゥナータ神聖国では聖なる存在であるシエナ=モルドレッド男爵令嬢に。
だがその裏側を知る者がいれば、きっと首を傾げるだろう。
(……何せ、あの二人を引き合わせたのは他でもない、この私だからな)
偶然でも、流れでもない。明確な意図をもって、そうなるよう仕向けた。
目的は一つ。
婚約破棄。
それも、誰にも咎められず、円満に、そして確実に。
(なかなか骨の折れる作業だった)
心中で淡々と総括する。
恋情という不確定要素に期待するのは本来好ましくない。だが今回に限っては、あの二人の相性は明らかだった。だからこそ、ほんの少し背を押してやればよかっただけだ。
──その『ほんの少し』に九年を費やしたのは、果たして効率的だったのかどうかはさておき。
(……いや、振り返るのはやめておこう)
終わったことだ。
それよりも今は、この結果を享受すべきである。
────フォルトゥナータ神聖国。
教会の頂点に立つ『神寵者・教皇』の意向のもと、王家が国を統治するという、いささか歪な均衡の上に成り立つ国家である。
そして『妖精王の愛し子』とは、その均衡を象徴する存在だ。
選ばれたのは、シエナ=モルドレッド男爵令嬢。庶子という立場でありながら、その座に就いた少女である。
「……本当に何と詫びればいいか……」
国王の声音は重い。
だが、それを受け止めながら、リュシエリアーナは内心で静かに首を振った。
(詫びられるようなことなど、何ひとつない)
むしろ逆だ。
望み通りに事が運んだ。
それだけの話である。
「まあ、おじ様。お詫びなど必要ありませんのよ? わたくしは再従兄でもあるアレクス兄さまの幸せを願っておりますもの」
柔らかな声音で返しながら、その内側では思考が冷静に巡る。
誰も傷つけず、自分の目的を果たす。
理想的な形だ。
────少なくとも、『表向きは』。
(……まあ、多少の後ろめたさがないと言えば嘘になるが)
だが、それを今さら持ち出しても意味はない。
それよりも重要なのは。
(私は自由になった、という事実だ)
内心でほくそ笑むリュシエリアーナなど露知らず、苦々しい表情に憐れむような視線を、国王ギリアムは送った。
「お前は何て優しい子だ、リュシー……!! 私はお前が実の娘になってくれる日をどれほど待ち焦がれたことか……!! お前ほどの絶世の美女を振るなど、アレクスの目はきっと腐りきっているのだ……!!!」
「………………父上、それは言い過ぎというものです」
バツが悪そうに反論するアレクスフォードに、リュシエリアーナも内心で深く同意する。
(その通りだ、アレクス兄さま……!)
もっとも、同意したのは『目が腐りきっている』という部分ではなく、『絶世の美女』という評価についてだが。
─────この国で絶世の美女と名高いリュシエリアーナ=マレグレン公爵令嬢を知らない者はいない。皆、その姿を一目見ようと躍起になり、その姿を見た者は必ず恋に落ちると言われるほど美しい容姿をしている─────と、されている。
(噂に尾ひれは付き物だと言うが、尾ひれどころの話ではないな……)
自嘲気味に心中で独白を落としたこの言葉は、決して彼女の謙遜などではない。
(顔立ちは中の上。良く言えば端正、悪く言えば没個性)
冷静に分析すれば、その程度である。
ではなぜ『絶世』なのか。
答えは単純明快だった。
────彼女の肩を流れる、夜の闇を凝縮したような黒く艷やかな美しい、漆黒の髪。
これこそが、神に祝福された色としてリュシエリアーナを『絶世の美女』と言わしめる所以だ。
そう、この世界では、髪色がすべてを決定づける。
濃ければ美しい。
薄ければ醜い。
ただそれだけ。
顔立ちも、体型も、立ち居振る舞いも、すべては二の次。髪色が『濃いか否か』だけで、評価が決まる。
(……実に合理的で、実に馬鹿げている)
どちらとも言える基準だ。
少なくとも、かつて自分のいた世界では考えられない価値観である。
────リュシエリアーナには、前世の記憶があった。
彼女がまだ二歳の時、大病を患って生死の境を彷徨った後、目覚めたリュシエリアーナの記憶に自分ではない自分の記憶が流れ込んできた。
彼が育ったのは『日ノ本』と呼ばれる小さな島国の『駿河国』。
病弱で体も小さく、武士としては落第もいいところ。周囲から嘲られ、両親からも見放されていた。
だが────。
(剣だけは、誰にも負けなかった)
剣術の才。
それだけが、彼の誇りだった。
小さな体で、大の男を打ち倒す。
その姿はやがて評判となり、いつしか駿河にその人ありと謳われ始めた頃。
(……二十歳も迎えられなかった)
身体が限界を迎えた。
志半ばでの、死。
そこで終わるはずだった人生は、だが別の形で生を与えられることになる。
(何だ、これは……?)
その時の衝撃を、何と言い表そうか。
そうして次に目覚めた時、彼は幼い少女だった。
豪奢な寝台。見慣れぬ装飾。鼻をくすぐる香の匂い。
何もかもが異質でありながら、ただ一点──鏡に映る『黒髪』だけが、妙に現実味を伴って彼の意識に落ちてきた。
(……ああ、黒髪だ)
見慣れぬ光景ばかりの中で、唯一そこに馴染みの強い黒髪があって、たったそれだけで深く安堵したことを今なお脳裏に焼き付くほど鮮烈に覚えている。
それがまるで失われたはずの自分とこの身体とを繋ぐ、細い糸のように感じられた事は、きっと過言ではないだろう。
(ならば──今度こそ)
前世で果たせなかったことを、果たすために。
────剣を極める。
それだけを目的に、この二度目の生を使い切る。
そう、確かに決めたはずだった。
だが、その決意はあまりにもあっけなく打ち砕かれる。
「喜べ、リュシー! お前が王太子の婚約者に選ばれたぞ!」
満面の笑みで父がそう告げたのは、リュシエリアーナが九歳の頃。その言葉は、祝福というよりもむしろ、戦場で背後から撃ち抜かれたような衝撃を伴っていた。
「……………………こん…やくしゃ?」
父が口にしたその内容を理解するのに、九歳のリュシエリアーナは困難を極めた。何せ戦国時代に『婚約者』という言葉は存在しない。それがどういう意味の言葉なのかが判らず、リュシエリアーナは眉根を寄せて小首を傾げた。
(……役者の一種だろうか?)
言葉の音の印象で何とはなしにそう思ったリュシエリアーナに、父は畳みかける。
「これから本格的に王妃教育が始まる! 心を引き締めて臨むのだぞ、リュシー!」
「…? ……王妃教育? なにゆえ私が王妃教育を?」
「何を言っている? 王太子の婚約者になるという事は、次期王妃になるという事だぞ? リュシー」
「…………次期……王妃………?」
その言葉の意味を吟味するようにぽつりと呟いて、リュシエリアーナはようやく『婚約者』に代わる言葉を見つける。
「それは……っ!!! 許嫁という事ではありませんか……っっっ!!!!!」
「そうとも言うな」
どうだ、朗報だろう?と闊達に笑う父とは裏腹に、リュシエリアーナの顔はみるみる蒼白になった。
────ぞわり、と。
背筋を這い上がる悪寒に、リュシエリアーナの呼吸が一瞬止まる。
(……許嫁……? つまり……『いずれ、嫁ぐ』…?)
頭では分かっている。女が男に嫁ぐなど、どこの世界でも当たり前のことだ。何もおかしいことではない。誰も疑問に思わない、ごく自然な営み。
だが。
(……嫌だ)
その一言が、思考よりも先に浮かび上がった。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ……!)
心の奥底からせり上がる拒絶が、言葉にならないまま喉を焼く。
脳裏に浮かぶのは、見知らぬ男の手だ。
武具を握るためではない、誰かを斬るためでもない、ただ自分の体に触れるための手。
その指先が、己の肌に触れる光景を想像した瞬間、びくり、と体が小さく震えた。
血の気が引いていく。
指先が冷たくなる。
喉の奥が、吐き気を催すほどにざわつく。
リュシエリアーナは、蒼白な顔を慌てて父へと向けた。
「お、お待ちください父上!!!!! その婚姻!!! 考え直してはいただけませんか!!!?」
「……ん? なぜだ? 次期王妃になれるのだぞ? これほどよい縁談など、どれほど探しても見当たらないだろう?」
「よい縁談などではございません!!! なぜ私が男に嫁がなければならぬのですか!!!?」
「……………リュシーが女の子だからではないのか?」
「……………!?」
寝耳に水の父の返答に、リュシエリアーナは目を見開いたまま唖然とした。
(そ、そうか………!? 失念していた……!! 今の私は女子だった……っっ!! 何たる不覚……!!)
青天の霹靂とはまさにこのことだろうか。リュシエリアーナは九歳にしてようやく、自身の本来の性別を認識したのだ。
そして同時に、己の運命を悟る。
そう遠くない未来に、男に触れられ、そして男に抱かれる未来が必ず訪れることに。
ぞわぞわと言いようのない不快な感触が背筋を這って、一度小さく身震いするリュシエリアーナに父は訝しげに顔をしかめた。
「どうした? リュシー。相手は王太子であらせられるアレクスフォード殿下だぞ? お前もアレクス兄さまと呼んで慕っているではないか?」
もはや、そういう次元の話ではない。
確かに、再従兄でもある二歳年上のアレクスフォードに対して、好感は抱いている。彼は穏やかで優しく誠実な人物だ。だからこそ四つ上の実兄と同様、兄のように慕っていた。
肝心の容姿も、それほど悪いわけではない。いや、むしろ今の彼の顔立ちから推測するに大人になれば十中八九、精悍な顔つきになる事だろう。自分が本当に女であれば、きっとこの縁談は父が言うように幸せな婚姻になるはずだ。
そう、リュシエリアーナの中身が、かつて褌を締めていた元武士の魂でなければ─────。
「……一体何が不満だというのだ?」
(……………アレクス兄さまがよりにもよって『男』だからだ)
─────とはさすがに言えない。
(精悍な顔つきになるということは、それだけ男らしくなるという事だ……! 男である私の伴侶に、男らしさは必要ない……っ!! 必要なのは可憐さやたおやかさだ……!!)
─────とも言えない。
何ひとつ言い返す事の出来ないリュシエリアーナを置き去りにして、抗う術もないまま、王太子の婚約者の椅子に強制的に座らされたのだ。
その屈辱たるや、何と表するべきか。
かつて自分は男だった。
武家に生まれ、剣を握り、ただ強く在ることだけを求めて生きてきた。
その自分が、男に嫁ぐ?
男に触れられる?
男に抱かれる?
(……冗談ではない)
胸の奥で、何かが決定的に拒絶した。
理屈ではない。
常識でもない。
これはもっと根源的な、生理的な拒否だった。
(そんなもの……受け入れられるはずがない)
剣を振るうためにあったはずの腕が、誰かに抱き寄せられるために使われるなど。
(──そんな生き方、私は選ばない)
ぎり、と奥歯を噛み締める。
この瞬間、リュシエリアーナの中で一つの決意が固まった。
────何としてでも、この婚約は破棄する。
たとえどれほどの年月がかかろうと。
どれほど不名誉を背負おうと。
どれほど困難が待ち受けていようと。
(この身が朽ちようと、絶対に)
その誓いだけが、やけに鮮明に胸に焼き付いた。
────そうして、九年。
その結論を実現するために費やした時間である。
それは、剣ではなく策を用いた『静かな戦』だった。
真正面から覆せないのであれば、状況を変えるしかない。王命を覆せないのであれば、その前提を崩せばいい。
幸いにも、アレクスフォードは誠実な人間だった。そしてシエナは、真っ直ぐで、優しく、そして──惹かれるに足る魅力を持っていた。
二人の間に芽生えた微かな感情を、リュシエリアーナは見逃さなかった。
(これは……使える)
冷静に、そう判断した。
そして同時に、ほんのわずかな後ろめたさも覚えた。
だが。
(……背に腹は代えられん)
それ以上に、自分の人生がかかっている。
だからこそ彼女は、その感情を育てた。
壊さぬように、だが確実に結びつくように。時に距離を近づけ、時に機会を与え、気づかぬうちに互いを意識させる。
それはまるで、剣の間合いを詰めるかのように、緻密で、慎重で、そして確実な誘導だった。
(……少々やり過ぎたかもな)
今にして思えば、そう苦笑したくなる部分もある。
だが結果がすべてだ。
そして────その結果が今。
(終わった……)
長かった。
本当に長かった。
九年という歳月は、決して短くない。
その間、常に『縛られている』という意識があった。どれだけ自由に振る舞っているように見えても、その根底には必ず『婚約者』という枷があった。
だが、それももうない。
(これで……私はようやく)
自由だ。
その実感が、じわじわと全身に広がっていく。
剣の道へ進める。
誰にも咎められることなく、自分の望むままに生きられる。
そう思った瞬間、思わず口元が緩みそうになり、慌てて抑え込む。
(いかんいかん……まだ人前だ)
外面を保つのも、もはや癖のようなものだろうか。
内心で、勝利を確信した微笑を落としつつ、だがそれをおくびにも出さず、リュシエリアーナは二人寄り添うアレクスフォードとシエナに聖母のような微笑みを向けた。
「どうか、お二人を祝福させてくださいませ。そして心から、お二人の幸せを祈っております」
柔らかな声音でそう告げると、シエナは堪えきれずに涙を滲ませた。
アレクスフォードもまた、複雑な表情を浮かべながら深く頭を下げる。
その様子を見て、リュシエリアーナは改めて思う。
(やはり、お似合いだな)
心からそう思える。
そこに嫉妬はない。
未練もない。
あるのはただ、ほんの少しの罪悪感と、それを上回る安堵だけだ。
(これでようやく──)
自分の人生を、自分のために使える。
その確信が、静かに胸に根付く。
だが、この時のリュシエリアーナ=マレグレンは知る由もなかった。
自らが解き放たれたと思っているその鎖が、形を変えて再び絡みついてくることに。
そして──。
その先で出会うことになる運命が、自分の人生を根底から覆すことに。
今この瞬間の彼女は、ただ静かに、訪れた『束の間の自由』に満足していた。
**
その報せは、ほどなくして国中を駆け巡った。
────マレグレン公爵令嬢、婚約破棄。
絶世の美女の破談は社交界において無視できぬ話題であり、また一つの『事件』として、人々の興味を強く引くものでもあった。
その一報を、静かに聞き届けた男がいる。
「……婚約破棄、か」
白銀の髪を持つ青年は、手にしていた書簡からゆっくりと視線を落とした。
フォルスタート辺境伯、ラファシアン。
その名を知らぬ者はいないが、決していい意味ではない。
彼は書簡に書かれた『婚約破棄』という言葉を、指で軽くなぞった。
内容自体は珍しくもない。王都では日常茶飯事とまでは言わないまでも、さほど目新しい話でもないだろう。
だが、彼の手がほんのわずかに止まったのは、その『回数』を無意識に数えてしまったからだ。
(……何度目だったか)
自嘲にも似た息が、静かに漏れる。
自身はすでに十七度、婚約と破棄を繰り返してきた。
理由はすべて同じ。
────『醜悪だから』
耳にかけていた一房の髪が、はらりと彼の視界に落ちる。
そこに映る、忌々しい白銀の髪。
この世界において、最も忌み嫌われる髪色だ。
「……気の毒に」
誰に向けた言葉かは、自分でもよく判らない。
書簡を畳みながら、ラファシアンはわずかに視線を落とした。
同情か、それとも。
ほんの僅かな共感か。
だが、その『婚約破棄された公爵令嬢』こそが、やがて自らの運命を大きく揺るがす存在になることを、この時の彼はまだ知らない。




