【蝶々は蜜を選び、人は鏡を選ぶ】
ここは、心がちょっと迷子になった人がひょっこりと訪れてしまう場所。
1杯のお茶をゆっくり飲んでいる間に、ついつい心を開いて、溜め込んでいた本音を吐き出してしまう——そんな不思議な縁側です。
悪い心を持つ人は決して辿り着けない。心がほんの少し弱くなった人だけが、何かの拍子に見つけることができる場所。
さあ、今日はどんなお客様が、この暖簾をくぐってくるのかしら?
〜人を輝かせるお客様〜
子供の頃、人の髪を触るのが好きだった。ツヤツヤに梳かして、可愛く編んであげるだけで、自分まで幸せになれた。
大人になり夢を叶えて美容師になったけれど、最近はハサミを持つ手が震えてしまう。
「写真のこの髪型にして。この人になりたいの」
そう言われて、専門的な視点から「お客様とは少し相性が悪いかもしれません」と丁寧に提案しても、「私は客なんだからいいじゃない、やってよ!」と強引に押し切られる。
そして結果、似合わなかった時に返ってくる言葉は「こんなはずじゃなかった。あなたの腕が悪いわね」。
――だから言ったじゃない。
喉まで出かかった言葉を飲み込み、頭を下げる毎日。私は本当に腕が悪いのか。それとも、お客様を輝かせる資格なんてないのか。
そんな不安を抱えながら備品室の扉を開けた瞬間、いつものシャンプーの匂いではなく、緑の青々とした香りが鼻を抜けた。
「あれ……?」
気づけば、そこは古民家だった。縁側では、おばあちゃんがゆったりと腰を下ろし、陽だまりの中でニコニコとこちらを見ていた。
私は反射的にポケットへ手を伸ばすが、スマホは圏外どころか反応すらない。
「あ……! お客さまが待っているんです。すぐ戻らなきゃいけないのに、ここから連絡を取る方法は……何かありませんか!?」
私の焦りに、おばあちゃんは困ったように眉を下げて言った。
「あらあら、そうなのね。でもね、ここは連絡が取れない場所なの。道ができるまで、ゆっくりお茶でも飲んでいきなさいな」
促されるまま縁側に座ると、冷房のない世界なのに、なぜか身体が心地よい風に包まれる。
おばあちゃんは、どこか遠くを見つめるような優しい眼差しをしていた。
「……おばあちゃん、聞いてください。みんな、自分の意思で選んだ髪型なのに、失敗すると全部私のせいにするんです。遠回しに提案しても、結局強引に突き進んで……」
おばあちゃんは、庭を舞う色とりどりの蝶々を指差した。
「いろんな蝶々が飛んでいるねぇ。みんなそれぞれ、好きな花の蜜を吸っているわ」
「……そうですね」
「みんな好みはバラバラ。お花を育てる人は大変だけど、蝶々は自分で好きなものを選んでいるわね」
ふと、おばあちゃんが静かに言った。
「自分で選んだものが似合わないとわかった時、それを認めると恥ずかしいのね。だから、反対した誰かのせいにしてしまう。本当は、みんな自分自身が一番わかっているのよ」
その言葉を聞いた瞬間、心がすっと軽くなった。そうだ、あれは私の技術のせいじゃない。彼らの「自分を認められない弱さ」が、私に向けられていただけなんだ。
お茶を飲み干すと、おばあちゃんが立ち上がった。
「さあ、道ができたわよ」
指差す先に、備品室の扉がゆらゆらと浮かんでいる。
「おばあちゃん、ありがとう。今度お礼に、おばあちゃんの髪を切りに来るわね!」
おばあちゃんは寂しそうに微笑んだ。
「ここは一期一会の場所。もう二度と会えないのよ」
そう言って、着物と同じ模様で折った折り鶴を手渡してくれた。
「これを見て、この心地よい風を思い出してね」
私は大きく頷いた。
「おばあちゃん、ありがとう!」
振り返らずに扉へ駆け出す。私のハサミは、もう震えていなかった。




