第17話MOF担事件
2000年、日本の金融界を揺るがす一大スキャンダルが勃発した。「MOF担事件」——日本興業銀行による大蔵省(現・財務省)官僚への過剰接待が明るみに出た事件である。この事件で、根岸隆の東京大学時代の同級生であり、生涯の親友であった梅津興三が逮捕された。
当時、50代の梅津は日本興業銀行のエースであり、次期常務取締役への昇進が決まっていたエリートだった。しかし、検察の追及に対し、興銀の経営陣は接待の事実を糊塗しようとし、検察の怒りを買った。その結果、興銀は自社のエースを生贄として差し出すという、非情な決断を下したのだ。梅津もまた、組織を守るために自ら泥を被る役を買って出た。
隆は、親友の無念を晴らすべく、日本興業銀行と梅津本人から依頼を受け、弁護を引き受けた。
MOF担事件は、マスメディアの格好の餌食となった。特に、読売新聞は、ここぞとばかりに梅津の写真と実名を大々的に掲載し、彼に対する個人攻撃や誹謗中傷を繰り広げた。メディアが作り上げた「巨悪の象徴」としての梅津のイメージは、世間に深く浸透していった。
逮捕された梅津は、小菅の拘置所に収監された。隆は、親友の無事を確かめるため、毎日のように拘置所へ足を運び、彼と面会した。面会室で、梅津は隆に、まず息子である豪志の身を案じる優しい言葉をかけた。
「病気のお前の息子に心配をかけてすまない、根岸」
そして、拘置所の生活について、笑いを交えながら話した。
「拘置所は食事の時間が決まっていて、ものすごく早いんだ。朝は7時、昼は11時、夕食は4時30分きっかりに出てくる。でもな、これがけっこう美味いんだよ」
梅津の言葉に、隆はにこやかに答えた。
「当たり前だ。我が『祝一弁当』会社が卸している弁当だからな!」
二人は、その場に不似合いな、心からの笑顔を見せた。
「ホリエモンもASKAも、みんな祝一の弁当を食べていたんだぞ!」
隆は、自らの経営する会社が、日本の歴史的な事件の裏側で、静かに人々の生活を支えているという事実に、不思議な感慨を覚えた。
隆の死後、彼の葬儀で、私は梅津興三さん本人から話を聞く機会を得た。
葬儀には、元日本興業銀行副頭取の梅津興三さんをはじめ、元富士電機病院院長の田中亮先生、原病院理事長原淳子先生、そして西園寺一晃さん、山本隆夫弁護士といった、隆の人生を彩った錚々たる顔ぶれが集まっていた。職業柄、弁護士仲間も多く、また、父が顧問を務めた企業の社長や役員なども多数参列していた。しかし、伊東乾や村田美夏といった人々は、結局顔を見せなかったという。
梅津さんは、御歳84歳になってもなお現役で働いていた。彼は、大手結婚相談所IBJの社外取締役を務めていると語った。その仕事に対する彼の情熱は、今も衰えることを知らなかった。
「日本人の出生率は、結婚すれば1.9まで上がる。要するに、結婚させれば少子化は解決するんだ」
彼は、その高邁な理想を胸に、仕事に取り組んでいると話してくれた。
そして、梅津さんは、隆の葬儀で、亡き親友を偲びながら、いくつかの重要な事実を私に教えてくれた。
梅津さんが「神田弁護士物語」のMOF担事件に関する部分を真剣に読んでくれたこと、そして、そこにいくつかの事実誤認があることを指摘された。
まず、彼の事件は、裁判までいっておらず、略式起訴で終わったということ。そして、事件は興銀の常務になってから起こったということ。
そして、最も重要なのは、読売新聞による人格攻撃に関する事実だった。
「後日、読売新聞の記者本人が、私のところに謝罪に来たんだ。『今日は殴られる覚悟で来ました』と頭を下げてね」
梅津さんは、そう話した。
しかし、梅津さんは、その記者を殴らなかった。彼は、ただ静かに記者の話を聞いた。そして、最後に、二人は酒を酌み交わして和解したという。
この話は、梅津さんがどれほど寛大な心を持った人物であるかを物語っていた。彼は、自分を社会的に抹殺しようとしたメディアの記者を、憎むのではなく、人間として理解しようとした。そして、その理解が、許しという形で結実したのだ。
梅津さんのこのエピソードは、隆の弁護士としての信念、そして彼の人生哲学そのものと共鳴していた。隆もまた、裏切りや不条理に直面しながらも、人を許し、愛することを決して諦めなかった。
MOF担事件は、日本社会の構造的な問題、メディアのあり方、そして人間の弱さと強さ、両方を浮き彫りにした事件だった。そして、この事件を通して、隆と梅津、二人の偉大な人物が、それぞれの方法で、社会の不条理と戦い、そして人生を全うしたことがわかる。
隆と梅津の友情は、彼らの生涯にわたる知的探求、そして人間としての成長を支え続けた。MOF担事件は、単なるビジネススキャンダルではなく、二人の男の揺るぎない友情と、困難な時代を生き抜いた彼らの不屈の精神を象徴する物語だったのである。




