6-05
彩音はナナシと共に、万魔殿の入り口までやって来た。その大きな扉の隙間からは、何となく暖かい空気が流れ込んでくるように、彩音はぼんやりと感じる。
その時、呆けて立ち尽くしていた彩音の視界の隅に、リリエラの姿が映った。
「リリエラさん? どうしてここに……」
「お見送りに上がりました、彩音様」
いつも通りに全くの無表情で即答してくるリリエラだったが、もう慣れてしまっていた彩音は、軽く微笑んで礼をする。
「ありがとう、リリエラさん」
「恐縮です、彩音様」
その時、恭しく礼をするリリエラの足元を、小さな黒い影が横切った。
「にゃおん」
「あっ、クロちゃんも……見送りにきてくれたの?」
「にゃあ。……うにゃっ」
「きゃあっ!」
そうだ、と言わんばかりに一声鳴き、直後にいきなり飛び乗ってきたクロに、彩音は思わず驚いてしまう。相変わらず、不思議な猫だ。
「ふふっ、甘えんぼなんだから」
「にゃお」
彩音に体重を預けて甘えるクロを見て、面白く無さそうな顔をする少年が一人いた。しかしクロは素知らぬ顔でひとしきり満喫した後、悠々と彩音の腕から離れていく。
何やら不満顔で口を尖らせるナナシに彩音が気付いたのは、その後だった。
「……ナナシくん、どうかした?」
「べぇっつにぃ~」
「そ、そう?」
ナナシの様子を不可解に思いながらも、彩音は気を取り直し、万魔殿の出入り口に集まってきた全員の顔を見渡す。
「……皆のおかげで、私、先へ行けるようになった」
涙が滲みそうになるのを堪えながら、彩音は大きく頭を下げる。
「リリエラさん、クロちゃん――本当に、ありがとう」
「恐れ入ります、彩音様」
「にゃあ」
リリエラとクロの簡単な返事の後、顔を上げた彩音は、ナナシのほうを見た。
「……ナナシくん」
「ん?」
「ナナシくんには……一番、お世話になったわ」
「あはは、そうだね」
「……えっと、だから、あのね……」
目の前で軽快に笑う少年に、彩音は何と言えば良いのか分からなくなった。いくら考えても、繕おうとしても、浮かんでくる言葉など、たった一つしかない。
「ナナシくん――ありがとう。本当に――ありがとう――」
「…………」
ありがとう――それを聞いたナナシは、照れ笑いの表情を浮かべ、
「うんっ! へへ……なんか、恥ずかしいやっ」
朱色に染めた頬を指先でかきながら、いつもの明るい声を上げるのだった。
しかし顔が赤いのは、ナナシだけではない。頬が朱色に染まったのを隠すように、彩音は軽やかに回れ右をし、扉のほうを向く。
「それじゃあ……私、行くね」
彩音が別れの言葉を告げた瞬間――真っ先に反応したのは、リリエラだった。
「いってらっしゃいませ、彩音様」
いつものように、何とも〝心〟の伴わない事務的な所作で、彼女は一礼する。
だけど彼女が――リリエラが顔を上げた瞬間、顔だけを向けていた彩音は目を丸くした。
「……あっ!」
いつも無表情一辺倒だったリリエラが、その端正な顔に――それはそれはぎこちない、事務的な笑みを浮かべていたのだ。
「……わお」
「にゃあ……」
ナナシとクロがそれぞれ、驚いたような声を漏らす。
芸術品とも呼べる顔に浮かぶ、その貼り付けられたような微笑は、むしろアンバランスとさえ言える。けれど、それでも、リリエラは笑っていた。
「……ありがとう、リリエラさん」
リリエラはもう、いつもの無表情に戻って、何のお礼だろうかと首を傾げていた。彩音は何も言わず、ただ笑顔だけで答える。それでいい、と思えたのだ。
彩音と同じく目を丸めていたナナシとクロが、気を取り直して声を上げた。
「それじゃあ、おねえちゃん、元気でねっ」
「にゃあん」
手を振る少年と一声鳴く黒猫に、彩音は微笑で応えた。何とも呆気ない別れだと、そんなことを思いながら、彩音は彼らから背を向ける。
「うん、それじゃあ――」
扉に伸ばした彩音の手が、途中で止まる。
心によぎるのは、きっともう彼らには会えないのだという、形容し得ない想い。
別れは、悲しいだけではない。それはもう、彩音にも分かっている。
だけど心に次々と過ぎ去っていく想いを、止めることなど出来なかった。
それでも万魔殿は――昨日とも明日とも、今日とさえつかぬ時を、眠ることなく越えていくだろう。
訪れる者の願いも、去っていく者の想いも、全て飲み込んで続いていくだろう。
名残惜しさも、哀愁も、一抹の寂しさも、微かな慕情も――万魔殿は、全てを包んでいく。
「…………」
扉に手を掛けたまま動かない彩音の脳裏に、一つの言葉が浮かぶ。
――万魔殿では、全てが自由――
初めは戸惑っていた慣習だが、彩音は最後に一度、それに倣ってみようと思った。




