6-01
彩音が目を覚ました時、部屋の片隅にあった大きな黒いピアノは――部屋の中で異彩とすら言える存在感を誇っていたピアノは、跡形もなく消え去っていた。
驚くよりも、彩音は理解する。
お別れは、終わったのだと。
――そして――
もう一つのお別れが、すぐそこにまで近づいてきているのだ、と。
彩音が部屋を出ると、真向かいの部屋から、ナナシもほとんど同時に顔を出す。いつものようにあくびしていたナナシに対し、彩音が先に声を掛けた。
「ナナシくん、おはよう」
「ふあぁ……あ、おはよっ、おねーちゃん」
歯を見せて笑うナナシに、彩音も微笑み返しながら告げる。
「……ナナシくん、よかったら、少し歩かない?」
「…………」
誘ってくる彩音の顔を、ナナシは両の目を瞬きもさせず、じっ、と見つめていた。しばらくして、いつもの少年らしい笑みを見せながら、ナナシは答える。
「うん、もちろんいいよっ」
万魔殿の通路を、彩音とナナシは、並んで歩く。ここへ来てから、何度そうやって歩いただろう。思えば彩音の隣には、いつもナナシがいたような気がした。
「……ねえ、ナナシくん」
その名を呼んだ彩音だったが、ほぼ無意識の行動だったため、自分で驚いて足を止めてしまう。ナナシも立ち止まり、無言で彩音の顔を見上げて、続く言葉を待っていた。
彩音は少し考えた末に――ぽつりと呟くように言う。
「今まで、ありがとう」
その言葉を受け、ナナシは軽く目を丸めた後、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「どういたしましてっ!」
ああ、相変わらず、太陽のように笑う子だ、と彩音も微笑み返す。この薄暗い万魔殿において、彼の存在には、一体どれほど救われたことか。
思えば、彼にはずっと助けられっぱなしだった。万魔殿の〝案内人〟である彼は、だけどその役目以上に、彩音のことを何度も助けてくれていたのだろう。
彩音が〝希望〟を取り戻せたのも――彼が、居てくれたからだ。
「私、行くね」
どこへとも示されていない、そんな不明瞭な言葉。だけどナナシは、全て分かっている、というように軽く頷いて見せた。
「うん。僕さ、応援してるよ。おねえちゃんのこと」
ナナシはまるでいつもと変わらぬように、歯を見せて笑いながら、言葉を続けた。
「僕さ、なんとなく、分かってたよ。この人は――おねえちゃんはきっと、大丈夫だって」
だけどその、太陽のように笑う顔から――ほんの一瞬だけ笑顔が消えて、少し寂しそうな表情になった。それは本当に、一瞬のことだ。今はもう、笑っている。
「だから、おねえちゃんは、もう大丈夫――僕が保証するからさ!」
ああ、それは――彼との永遠の別れを、示しているのかもしれない。




