表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
万魔殿《パンデモニウム》は眠らない  作者: 初美陽一
第五幕 〝時〟は重ねて〝過去〟をも照らし、彼女は〝あなた〟へ贈るべきを知る (※彩音)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/55

5-09 第五幕ラスト

 自室へと戻った彩音は、椅子に座るでもなく、ベッドへ身を投げ出すでもなく、ただ立ち尽くしていた。

 どれほど経ってからか、大きく深呼吸した彩音が、部屋の片隅へと歩いていく。


 ()()の前に――ピアノの前に立った彩音が、無言でまた立ち尽くした。


「…………」


 彩音が無造作に、左手でピアノの蓋を開く。薄暗い部屋の中でも輝いているような白い鍵盤に、彩音は自身の意思でも動かしにくい右手を、ゆっくりと伸ばした。


 右手に力を込めて鍵盤を押し込むと、ポロン、と軽やかな音が弾む。それとほぼ同時に、つきり、と右腕が痛んだ。そのまま彩音は、引いた右手で白い鍵盤の表面を撫で、ぽつり、ぽつりと呟き始める。


「……私はあなたと、ちゃんとお別れをしていなかった」


 一つ一つ、噛み締めるように、彩音は語りかけた。


「怖かったの。あなたを失って、私はこれから、どうすればいいの、って。目の前が真っ暗になって、何も見えなくなって、見たくなくって――あなたのことも、捨ててしまった」


 万魔殿へ来てからも、彩音はこのピアノから、ずっと目を逸らし続けていた。


「だけど本当は――私、こんなにも後悔していたのね」


 けれど、今は違う。彩音はその目を、逸らしてなどいない。


「私がしないといけなかったのは、あなたを捨てることじゃなかった。あなたから、逃げ出すことじゃなかった。本当は最後に、あなたと向き合わなければいけなかったの。そして私は、あなたに――言わなければならないことが、あったの」


 今までずっと、ピアノのことを思う時は、やり場のない怒りや悲しみが心に溢れていた。けれど今の彩音に、その感情はない。ただ穏やかな表情で、向き合っている。


 怒りや悲しみを感じる必要など、最初から無かったのだ。


「それが今、ようやく分かったの。ここへ――万魔殿へ来て、時を重ねたおかげで、ようやく」


 本当に言わなければならないことは、恨み言でもない、泣き言でもない。彩音にとって、何よりも大切な〝あなた〟へと贈るべき言葉は、()()だったのだ。




「今までずっと、ありがとう。そして――さよなら――」



 その言葉を噛み締めて――彩音はしばらくの間、目を閉じた。どれほどそうしてからか、彩音の口元が軽く緩む。


「ふふっ、やっと言えたわ、お別れ」


 はにかむようにして笑った彩音の目尻から、大粒の涙が、一つ零れた。


「あっ、やだ、わたし、あっ……おかしいな。ふふっ、あっ、ぐすっ……あははっ」


 両手の甲で涙を拭っても、雫は次々と頬を伝って零れていく。なんだか彩音は、それが恥ずかしくて、だけど何だか可笑しくて――泣きながら、笑った。


 ――我慢する必要なんて、どこにも無かったのだ――


 彩音は心の底から、全てを吐き出すようにして、笑って、泣いて、また少し笑って――また少し、泣いた。



 悲しいだけの涙ではない。

 別れを受け入れるための涙があるのだと、知った。


 その夜、彩音はいつか右腕の自由を失った時――そのことをようやく理解した時と同じように、泣きながら眠りについた。


 ただ、今はその時のように、心は〝絶望〟で満たされてはいなかった。

 彩音の心には――失った〝モノ〟が、返って来ようとしているのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ