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見知らぬ手に引かれて、どこまで逃げてきただろう。再三に渡って通路に入り、階段をいくつか上がって、大男の雄叫びが遠くなっていくたび、彩音は少しずつ安心感を覚えていた。
迫ってきていた大男の声が聞こえなくなった時、ようやく二人の足が止まる。
「はぁっ、はぁっ……」
膝に手をついて息を切らせていた彩音が、安堵に胸をそっと撫で下ろす。
当面の危機は脱したようだ。しかし、彩音の手を引いていたのは誰だったのか。
彩音が恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは――
「……へへっ、おねえちゃん、危ないとこだったねぇ」
――朗らかに笑う、幼い少年だった。
歳のほどは、恐らく十歳を少し超えた程度だろうか。痩せ気味ではあるが幼い顔立ちからは愛らしさが窺え、少年らしく好奇心旺盛そうな瞳をくりくりと輝かせている。
少しばかりクセ毛気味の短めに揃えられた赤髪は、何となく彩音とは違う国の生まれのように見えた。
服装は、何やら不自然に思えるほど真新しいが、彩音には見たことのない服である。その真新しさとは裏腹に、意匠は時代錯誤の古めかしい雰囲気だった。
笑みを絶やさぬ少年は、明るい印象そのままの語調で彩音に話しかけてくる。
「おねえちゃん、どうかした? あっ、わかった。さっきのアイツに追いかけられてさ、怖かったんでしょ? もう大丈夫だよ。ここまで逃げれば追ってこないと思うから。アイツは一回でも見失ったら、結構すぐに諦めちゃうんだからね」
この少年はお喋りがよほど好きなのか、何も言っていない彩音に対して、次々と言葉を投げかけてくる。その勢いに少しだけ戸惑いながら、彩音がおずおずと尋ねた。
「あの……さっきの大男って、何なの?」
「ああ、アイツは〝理性〟っていうヤツを失くしてるんだ。だからさ、ここへ来る人達とか住んでる人達を、とりあえず襲おうとするんだよ」
「ここへ来る? 住んでる? 〝理性〟を失くしてる、って……ど、どういう意味? ねえ、ここって、一体なんだっていうの? どういう所なの? なんで、急に扉が出てきたり、襲われたり……あなただって、一体――」
「まあまあ、落ち着いてよ、おねえちゃん。僕が今から案内するからさ」
「……案内?」
「そっ、僕はここの〝案内人〟なんだ」
質問攻めにする彩音に、少年は慣れた様子で対応する。年端もいかない少年に諭されているようで、彩音は少し気恥ずかしくなっていた。
「そ、それじゃ、あの……」
「うん、なに? おねえちゃん」
「……あ、案内、よろしくお願いします」
「うん! まっかせてよ!」
快諾しながら歩き出した少年に、彩音が慌てて付いていく。と、歩き出した少年はすぐに振り返り、彩音に向けて笑いかけた。
「僕の名前は、ナナシ。よろしくね、おねえちゃん」
「あ、え、あっ……わ、私の名前は彩音、皆月彩音よ。よろしくね、えっと……」
ナナシ――名無し? と変わった名前を訝しがりながら、彩音は続ける。
「よろしくね、ナナシ……くん」
「うん! それじゃまあ、とりあえず付いてきてよ」
駆け足で終えた自己紹介の直後、少年はよほど気が早いのか、早足で歩き出した。
この陰鬱とした場所には似合わない子だ、と何となく思いながら、彩音は少年の背中を追う。独りで佇んでいた先ほどまでに比べれば、心はずっと軽くなっているようだった。
「さあ、着いたよ」
数分と歩かない内に、少年がそんなことを言いながら立ち止まった。突然だったもので、彩音も思わず戸惑ってしまう。
「……着いたって?」
「ここの、ご主人様の部屋」
少年の言うこことは、城とも館ともつかぬこの場所そのものを指しているのだろう。
その部屋の扉は他と比較しても非常に大仰で、見ているだけでも重苦しさが伝わってくるようだった。そしてその部屋にいるのは、この不思議な場所の主なのだと少年は言う。
「じゃあ、適当に挨拶してきなよ、おねえちゃん」
「えっ? な、ナナシくんはついてきてくれないの?」
「うん、邪魔しちゃ悪いしさ。おねえちゃんが出てくるまで、この辺で待ってるから、安心してよ。案内も終わってないしね」
「……そ、そう……」
若干の不安は拭えないまま、彩音は一つ深呼吸してから、重たそうな扉に手を触れた。
――ギィ、と重苦しそうな音を立てながらも、しかし扉は羽のように軽い。まるで、初めてここへ来るときに触れた、あの入り口の扉のようだった。
「…………」
彩音は心細さから、ついナナシのほうを見た。するとナナシは軽く破顔して――
「いってらっしゃい! おねえちゃん!」
何とも快く送り出してくれた。
「……い、いってきます」
もうどうにでもなれ、と彩音は若干投げやりになりながら、室内へと足を踏み入れた。




