3-06
『お嬢さん……メイドのお嬢さん』
暗闇の中にあったリリエラの意識が、誰かに身体を揺さぶられたことで、ゆっくりと覚醒していきます。ようやく目を開くと、そこには見知らぬお爺さんの顔がありました。
『えっ……きゃっ?』
『おお……気付いたかね。よかった、よかった』
『あ、あの……ここは?』
うんうん、と頷くお爺さんを尻目に、リリエラは辺りを見回します。
リリエラは、確かに万魔殿の、自分の部屋で眠りについたはずでした。ですが、そこは万魔殿ではありません。外の――リリエラが元いた、歓楽街の通りでした。
『えっ……? わ、私、私……どうして、こんな所に』
『ああ……どこかのお屋敷から逃げてきて、迷い込んだのかね? だけど、こんな所で眠っていてはいけないよ。吹溜のようなこの場所では、寝ている間に襲われても、文句は言えないのだからね』
『ち、違います、違うんですっ! 私、万魔殿にいたんです! さっきまで、頂いたお部屋で眠っていて、その前は、お料理を作って、ナナシ様とお話していてっ!』
捲くし立てるリリエラに、お爺さんは戸惑っていました。何か可哀想な者を見るような眼でリリエラを眺め、その肩に優しく手を置きます。
『お嬢さん……気持ちが落ち着いたら、自分の元いた場所へお帰りなさい。どんな場所でも、ここよりはずっとマシなはずだよ……』
そう言い残して、お爺さんは闇の中へと消えていきました。一人ぼっちになってしまったリリエラは、地面に膝をついて、途方に暮れてしまいます。
元いた場所へ――リリエラがいたのは、万魔殿だったはずです。だけど万魔殿は、どこにもありません。夢幻と同じように、消えてなくなってしまいました。
あれは、夢だったのでしょうか? 全てを失ったリリエラに、神様が、いいえ、お優しい大悪魔のあの方が見せてくださった、一時の儚い幻だったのでしょうか?
あれが夢幻だったのなら――万魔殿など存在しないのなら、リリエラの元いた場所というのは、一体どこなのでしょうか。
愛する人はもういない、リリエラを虐げ続けたあのお屋敷でしょうか。それとも、リリエラが売られていった、あの娼館でしょうか。
そのどちらにも――いいえ、この世界のどこにも〝幸せ〟なんて、見当たらないというのに。
『うっ……うぁぁん……! イヤ……こんなの、いやぁ!』
誰よりも不器用で、誰よりも弱いく愚かなリリエラには、ただ泣くことしか出来ませんでした。涙を流すことしか出来ないその目から、大切なモノを失った悲しみを、無意味に垂れ流すことしか出来なかったのです。
だけどそんな、役立たずの目に――〝幸せ〟を失ったその目に、あの扉が映りました。
『あ、ああっ……ああっ!』
見間違えるはずもありません。それは万魔殿の――万魔殿への扉でした。
あの日々は、やはり夢なんかではなかったのだと、あの〝幸せ〟な時間は、確かにそこにあったのだと、リリエラは喜んで扉に飛びつきました。
ですが――
『んっ……! は、あぁっ……なん、で……? どうしてぇ……?』
いくら押しても、扉は一向に開きません。
『開けて……開けてっ、開けてよおっ! 私は、私は〝そこ〟にいたいの! こっちには、私の〝幸せ〟なんて、もうどこにも無いのっ!』
どれだけ強く叩いても、扉はびくりともしません。初めて扉を開いた時の軽さが、まるで嘘のようでした。
扉は重たくて、重たくて、それが自身を拒絶しているのだということがはっきりと伝わってくるものだから――それがリリエラには、悲しくて、悲しくて、仕方なかったようです。
『ふっ、ぐぅ……ひぐっ、えぇん……』
リリエラの〝幸せ〟は、万魔殿の中にありました。万魔殿で〝幸せ〟を取り戻してしまったリリエラは、万魔殿に留まれなくなってしまったのです。
だけど、万魔殿にいられなくなれば〝幸せ〟ではなくなってしまう。だけど、万魔殿にいれば〝幸せ〟を取り戻してしまう。その〝幸せ〟を失ったリリエラの目に、万魔殿への扉は映りますが、扉を開くことだけはどうしても出来なかったようです。
リリエラは万魔殿への扉の前で、長く、長く悩みました。どうすればいいのかと、彼女は不器用な頭で考え続け、〝心〟が壊れてしまいそうなほどの想いを、万魔殿に寄せ続けました。
苦悶の果てにリリエラは、ようやく一つの答えに辿りつきます。
――万魔殿へ入るには、生きるために必要な〝何か〟を失わなければならない――
『……ああ、そうよ、そうだったわ……』
考えてみれば、簡単なことでした。不器用な頭で、ようやく辿り着いた答えに、リリエラは壊れかけた〝心〟のままに微笑みます。
だけど、何を失えばいいのでしょうか。リリエラは全てを失って、今では何も持っていません。唯一、求める〝幸せ〟は、万魔殿に置き忘れてしまったのです。
何を失っても構わない――そこに居られる〝幸せ〟のためなら、何だって捨てるわ――
リリエラは、最後にもう一度だけ微笑みました。しかしその表情はすぐに沈み込み、口はそれきり真横に閉じられて、瞳は一切の輝きを失います。
そんなリリエラの目の前で――とうとう、万魔殿への扉が開いたのです。




